弁護士ブログ

「悪い人」を弁護する?(1)

2019.07.25

⑴ よくある質問

 先日のブログ記事(憲法を楽しく読む(1))で,「誤解される」「よく質問を受ける」ことがあるということを書きました。これを書いた箇所は憲法の刑事手続に関する条文について触れたところでした。つまり誤解されたり,よく質問を受けたりするのは,刑事弁護についてです。

 友人などに「弁護士をやっている。」と近況報告をすると,大概される質問が「専門は?」と「刑事もやるの?」というものです。前者については,また後日お話しするとして,後者について「刑事ももちろんやるよ。」と答えると,その話の中でさらに出てくる質問が「弁護士って,何で犯罪者を守るの?」といったものや,過去の私を知っている人だと「学生の頃は正義の味方だったのに,何で悪い人の方の味方になっちゃったの?」という人もいます。なお,この質問はおそらく,無罪弁護については理解できるものの,有罪が決まっている情状弁護については理解できない,という趣旨であると解釈します。

 弁護士であれば一度は聞かれたことがあるこの質問ですが,聞かれる度に「自分は世間的に悪いことをしているのか?」と悩みます。それと同時に刑事弁護(特に有罪ありきの情状弁護)の意味をわかりやすく,説得的に説明することの難しさも感じます。

 なぜ弁護士は犯罪者を弁護するのでしょうか。

 これを理解するためには,まず弁護士制度の歴史を振り返り,弁護士制度における刑事弁護制度の歴史,位置づけを知る必要があります。その上で憲法の条文を見てみると自ずとわかってくると思います。

(つづく)

投稿者:河野邦広法律事務所

質問と国民

2019.07.12

 夏の参院選を控え,マスコミが特集を組むかと思いきやそうでもなく,芸能関係のニュースが目立ちます。マスコミは国民を写す鏡とばかりに国民の国会に対する興味は表面的になり,閣僚の失言や野党の審議拒否に対する誤解に近い批判がネットにもあふれています。国民の国会に対する興味が失われる原因として国会における議論が充実していないということもあるのではないでしょうか。

 特に最近のニュースで流れる質疑(質問),証人喚問,参考人招致などは噛み合わないものがほとんどのように感じます。なぜ国会の質疑等が,こうも噛み合わなくなってしまったのでしょうか。

 質疑等が噛み合わない基本的な原因は,拙い質問と論点ずらしの答弁にあります。

 質問の拙さについては構造上,ある程度やむを得ない部分もあります。そもそも質問事項は予め回答者側に開示されるものであり,回答者は入念に準備してから回答します。また回答者の後には官僚が控えており,回答内容を回答者に伝えることもあります。そのため質問者が回答者を「崩す」ことは至難の業です。反対に言えば,国会の質問に回答できない閣僚は準備を怠っていることになり,非難されてもやむを得ないかもしれません。

 他方,論点ずらしの答弁については既に複数の知識人が指摘していますが,手法が決まっています。「複数の解釈が可能な言葉を質問者の意図と異なる意味に解釈し,そのことを秘したまま回答する。」というものです。この手法については対策方法がないわけではありません。複数の解釈が可能な言葉を不用意に使用しないことと,複数の解釈が可能な言葉を使用するときには冒頭で定義して共有することです。とはいえ,短い質問時間の中でそういった時間を取ることは難しいかも知れません。

 最近,論点ずらしの答弁について巧みな答弁かのような趣旨でマスコミが報じることがありますが,誤っています。国会議員は国民の代表者であり,内閣は国会の信任に依拠して成立するものです。ですから,国会議員の質問に対して論点をずらして回答するという行為は国会議員の後に控える国民を愚弄する行為であり,批判されなければなりません。また論点ずらしの答弁をされた国会議員が野党議員であっても,与党議員は「国会(国民)軽視」という理由で抵抗しなければなりません。この点については反発される方も多いかと思います。しかし内閣と国会は本来,相互に牽制し,緊張関係を維持していなければなりません。国会議員は与党議員であっても全国民のために(憲法43条1項、15条2項)内閣を監視して抑制しなければならないのです。

 こういった本来的な国会の機能が不全に陥っていることが現在の国会の空転を招いているように思われます。

 論点ずらしをされたときには,我々国民全体が馬鹿にされているのだということを今一度,確認する必要があると思われます。

投稿者:河野邦広法律事務所

子どもが教育を受ける権利(3)

2019.05.30

5.もう一つの問題

 前回のブログでは子女が生まれた家庭の貧富の差と学力について述べました。

 では貧困家庭の子女を救済すればそれで良いか,というとそういうわけではありません。

 裕福な家庭に生まれて,高いレベルの教育を受けた子ども達の中には反対に,勉強以外にやりたいことがあるのにやらせてもらえないという子もいます。ある医師の家系に生まれた方が医学部以外の学部に進学したら家の中で相手にされなくなったという悩みを聞いたこともあります。

 子どもの背中に翼があるという話がありますが,翼があっても飛ぶことを欲しない子どもは存在します。むしろ翼を欲しがる人がいるならば,もぎ取ってくれてやりたい,と思うほど悩んでいる子どももいるでしょう。これを受験に当てはめるなら,受験以外にやりたいことがある子どもは,裕福かつ(悪い意味で)教育熱心な家庭に生まれてしまったがために,幸福を感じられないのです。そういった子どもへの配慮もあってしかるべきです。

6.現代における子どもの教育を受ける権利

 繰り返しになりますが,女子の進学については社会が再び動き出しました。しかし問題の発端となった私立大の医学部も,話題の祝辞が述べられた東京大学も,結局,その学生のほとんどは裕福な家庭の子女です。そういった子女は同学年の子女の何パーセントを占めるでしょうか。今,動き出した議論はつまるところ,勝者たちの子女に限定された公平性の問題の域を出ないのです。

 また裕福な家庭に生まれた子女の中にも,ありがた迷惑な教育を押しつけられて苦しんでいる子どもがいるにもかかわらず,「裕福なのだから,ありがたく思え」と言わんばかりに放置したり,辛い思いをさせたりしていないでしょうか。

 現在社会が議論の対象としている子女だけではなく,もっともっと多くの子どもたちが,受けたい教育を受けられず,または受けたくもない教育を押しつけられて苦しんでいます。こうした多くの子どもたちに目を向けて議論をすることが必要です。

 憲法は「その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利」(憲法26条1項)を保障しています。

 今一度,憲法の理念を思い出し,より多くの子どもが適切な教育を受けられる制度,環境が整備されることを願います。

投稿者:河野邦広法律事務所

子どもが教育を受ける権利(2)

2019.05.27

3.現代における教育事情

 偏差値を指標とすることの危険性を論じるためには現代の教育事情について述べる必要があります。そして現代の教育事情について述べる前提として,私が子どもの頃の教育事情について触れさせていただきます。

 私が子どもの頃は現在のような商業的な塾が普及しておらず,受験に関する情報やノウハウも蓄積されていませんでした。例えば英検の過去問集などというものすら私の手元にはなかったと思います。このような時代においては,塾に通うことや情報収集をすることが必ずしも一般的ではなく,塾に通うこと等で有利になれる,という状態でした。

 しかし現在では全国展開するような大手の塾が一般化し,過去問やノウハウが蓄積され,情報があふれかえっています。このような時代においては塾に通うこと等が受験の必要条件となり,これができないことは圧倒的に不利になります。そして塾に通うことをはじめ,情報,ノウハウを入手することは教育産業内で形成された流通プロセスの中で商業化,すなわち金銭取引の対象となっています。その結果,資力のある裕福な家庭の子女が受験に有利となり,貧困家庭の子女は圧倒的に不利になります。極端な表現を用いれば,スタートラインにすら立てないこともあります。

 このような現象は大学入試にも当てはまります。大学入試レベルであれば,幼いころから高いレベルの学校に通ったり,塾に通ったりして正確な情報を得て,高い質の教育を受け,正しい努力をすれば,いわゆる上位の大学に合格することはそれほど難しくありません。反対に地元の公立小学校,公立中学校に通う場合,高校入学の時点で,前述した高いレベルの教育を受けた方々との間に,相当の学力差が生じてしまうことが多いです。たとえ地元の公立進学校に進学したとしても,受験対策はしてくれないことが多いので,逆転するには相当の要領と努力が必要になります。

 結局,現代の教育事情においては,大学入試レベルにおける結果が,生まれた家庭の貧富によりおおかた決まってしまう状態なのです。

4.偏差値を指標として強調することの危険性

 このように現代の教育においては大学入試レベルにおける学力は生まれた家庭の貧富に依存します。したがって大学入試において偏差値を指標とすることを強調することは,大学入試において貧富の差を強調する結果になりかねないのです。

 先日のブログでも書きましたが,生まれた家庭の貧富の差は子どもにはどうにもできない事情です。このように子どもにとってどうにもできない事情に左右される指標に依拠して大学入試,ひいては教育が議論されることに私は危険,不安を感じるのです。

 大学入試において偏差値を指標とすることを強調するかのような発言をされている方が偏差値の「客観的公平性」を論拠として述べており,貧困家庭を差別する意識がないことについては理解しています。しかし,貧富の差を意識していないことにこそ現代教育の問題点が隠れているようにも思われます。

(つづく)

投稿者:河野邦広法律事務所

子どもが教育を受ける権利(1)

2019.05.21

 昨年から大学受験や進学等にまつわる話題が立て続けに取り上げられていますが,ここで子どもの教育について大学受験を例にして書きたいと思います。

 やや長文となるため複数回に分けて掲載します。

1.近時の議論の方向性とそれに対する不安感

 先日の医学部不正入試問題や東京大学入学式の祝辞などで女子の進学については議論が活発に行われるようになりました。このような制度的,構造的不公平が是正される方向で議論されることは好ましいことです。しかし他方で制度的,構造的不公平を是正するために極端な意見が飛び交い,進学における入試の点数や偏差値といった指標を絶対視するかのような意見が目立つことに不安を覚えます。

2.偏差値を指標とすることの是非?

 私が高校時代には,むしろ試験の点数や偏差値を基準とする進路選択については「輪切り教育」などといって強い批判に晒されていました。高校1年生の時,倫理の授業でディベートが行われ,「偏差値を基準とする輪切り教育の是非」という議題が設定されたのですが,今思えば,当時の風潮からいって,この議題で「是」の側に立つ者などいるはずありませんでした。しかし私はただ一人,「是」の方に立って数十人のクラスメートから集中攻撃を受けてしまいました。

 私が「是」の方に立ったことには理由があります。

 偏差値を指標とする教育の良いところは「客観的公平性」です。同一の母集団内における競争である限り,偏差値(入試の得点)を基準として順位,合否を決定することは恣意の介入の余地がないため,客観的公平性が保たれます。

 高校当時の私にとって,試験において客観的公平性が保たれることは生命線ともいえるものでした。というのも私の実家は常に家計が苦しく,本来であれば大学に進学することも許されないような状態でした。しかし親族や兄の協力を得て私は進学をすることができました。もし大学入試に主観が入り込む余地があったり,財力によるスクリーニングがあったら私は絶対に大学に進学できませんでした。ですから,そんな私にとって,当日のペーパーテストのみによる一発勝負は公平かつ究極の自己責任による勝負であり,大変ありがたい制度だったのです。

 こういったことを高校入学当時から意識していたため,客観的公平性が保たれる偏差値教育に対して,私は好意的でした。こういった考え方は私の事情を知らない一般的な方々からすれば「学力至上主義」「勉強ばかりしている」という評価になるのだろうと思います。しかし実際には私は勉強ばかりしていたわけではなく,スポーツもしましたし,部活にも力を入れていました。またテレビも視聴しましたし,漫画を読んだり,ゲームに熱中した時期もありました。ですので,事情を知らない一般人の意見などというものは的外れでありあまり意味がないと思われます。

 したがいまして私の意見としては,偏差値を指標とすることは試験の客観的公平性を確保する意味で有用であり,これにより学力至上主義に陥るとは思いません。

 では,なぜ今になって偏差値を指標とすることを肯定する意見に不安を感じるかということになります。

(つづく)

投稿者:河野邦広法律事務所

平成31年度東京大学入学式の祝辞について

2019.04.13

 報道では平成31年度東京大学入学式で述べられた祝辞が話題になっているようです。

 

 ここで先に補足しておきます。

 

 毎年マスコミが報道するのは祝辞ではなく、「総長式辞」です。今回は総長式辞だけでなく、祝辞の方も注目を集めたということです。

 

 個人的な感想としては、冷や水を浴びせられたような形になった新入生(特に男子学生)は可哀想だな、ということです。東京大学は現役合格者が多いため(我が浦高は極端な例外です。)、入学式の段階では未成年で、思慮分別も未熟な彼らに、いきなり社会の構造的不公平、つまり自分ではどうにもすることができない不当な差別等の存在を絶対的なものとして突きつけるのは酷ではないでしょうか。また読むとわかりますが、私が男子学生の保護者であったら祝辞の前半で気分が悪くなったかも知れません。これでは従来女子学生やその保護者が受けた精神的苦痛を男子学生やその保護者が受けるだけにならないかと不安になりました。もちろん、発話者にとっては深遠な意味が含まれているとは思いますが、だからこそこの祝辞は全体を正確に読み取らなければミスリードに陥る可能性があると思います。

 また、今回の祝辞で発話者が真に述べたかったこと(真意)を読み取れるか、読み取れないかという基準は、日本語の読み取り能力の指標になるとも考えました。もちろん、読み取り方の正解は1つではありませんが、かといって読む側の数だけ読み取り方があって良いという性質のものでもありません。

 

 私が読み取り方として気になった点は以下の3点です。

1 「合格率」の解釈

 この祝辞では医学部入試を題材とし、「合格率」を統計指標として使用して論を組み立てています。しかし「合格率」の定義は示されていません。各報道で既に報じられていることから公知の事実ともいえるかもしれませんが、発話者自身も述べるとおり、統計の解釈には注意が必要で、必ず指標の定義、つまり計算方法を確認、理解しなければミスリードに陥る危険があります。

2 祝辞の前半と後半との整合性

 この祝辞では前半において女子受験生の偏差値の男子受験生に対する優位性について述べています。これに対して後半ではフェミニズムについて述べています。私が最初に祝辞を読んだときには、これらの整合性がとれないような感覚に陥りました。そして何度も読んだ結果、発話者の論の構造を推測し(正確かはわかりませんが)、整合性は取れないわけではないと考えるに至りました。私が間違えているかも知れないので不安ですが、皆さん、よく読んで考えてみてください。

3 祝辞が全体として述べたいこと

 この祝辞は時間の関係上、多くの「前提」を省略しながら述べられています。そのため、部分的に読んだり、1回読んだだけでは全体として述べたいこと、つまり真意を理解することが極めて困難です。入学式に出席した新入生やその保護者は1回聞いただけなので、その場では理解できなかったのではないでしょうか。前半だけ聞いて後半を聞かなかったり、反対に最後だけ聞いて理解したつもりになってしまっている可能性もあります。いずれにしろ真意を理解するためには統計資料も参照しながら何度も読み返す必要があると思います。

 この祝辞に対して総長式辞は、これから東京大学で学ぶ新入生のためのカリキュラム説明や社会で活躍する先輩の話などが盛り込まれ、希望に満ちた内容になっているように思われました。

 入学式全体としてみれば、祝辞で気を引き締めて、総長式辞で希望を抱かせる内容になっており、非常にバランスが取れた内容だったのではないでしょうか。

投稿者:河野邦広法律事務所

結婚と姓について(補足)

2019.04.13

 先日の同タイトル記事についてご意見をいただいたので補足します。

 

 ご意見の内容としては、姓の変更の問題は姓を変更する人の社会生活上の不便やそれにともなう苦痛などが主なものであり、婚姻の性質などは当事者にとってあまり問題ではない(重要性が低い)のではないか、というものでした。

 

 確かに姓を変更する方の不便や苦痛は察するに余りあります。ご意見の内容は問題の実態を指摘したものとして正しいものと思います。もっとも、私がブログで書いた婚姻の性質などの内容は、上記ご意見の内容を当然の前提としています。その上で今後、この問題について違憲判決を獲得し、または国会に法改正を促すために必要と思われる理論構成を示したつもりです。

 というのも、従来の夫婦別姓関連訴訟において、姓を変更する当事者の不便等は再三主張されてきました。裁判所はそういった当事者の不便等を前提とした上で夫婦同姓を合憲と判断しているのです。ですので、これ以上、当事者の不便を重ねて主張しても大きな効果が期待できないのではないかと予測されます。そこでこれまでとは異なった角度で主張する必要が出てきます。先日の訴訟において代理人が戸籍法に着目して平等権(憲法14条等)の問題としたことも、従来の主張から構成を変化させたという視点は問題意識が重なります。

 また同様の視点として、2015年判決の意見でも触れられているように、離婚や養子離縁の際における氏の続称(民法767条2項、816条2項)との整合性も今後の検討材料となると予測されます。具体的には、離婚や養子離縁において氏の続称が認められる根拠は、婚姻や長期間の縁組により形成された社会的な認識を離婚や離縁によって失うことの不利益を救済するというものでした。しかし同様の不利益は婚姻においても発生します。すなわち出生時の姓を称することにより形成された社会的な認識を婚姻によって失うことの不利益は発生します。離婚や離縁については救済し、結婚については救済しないことの整合性が今後検討されていくのではないでしょうか。

 

 2015年の最高裁判決においても女性裁判官3名全員を含む5名が違憲と判断していたことから、夫婦同姓制度の理論的根拠は動揺しつつあると言っても過言ではありません。ここからさらに一押しして崩していくためには、やはり制度の根拠を支える婚姻の本質が変化、変質していることを強調する必要があると考えます。

投稿者:河野邦広法律事務所

憲法を楽しく読んでみる(2)

2019.04.06

 前回は自分で視点を設定して読んでみる、というものでした。

 今回は憲法に登場する人や機関について見てみましょう。漫然と読んだ場合とは違う憲法の構造に気づけるかもしれません。

 

 憲法の条文は1条から103条まであります(ただし100~103条は補則)。試しに第1章から読んでみましょう。

 1条には「天皇」と「日本国民」が登場します。予想どおりといえば予想どおりですね。

 2条に「国会」、3条に「内閣」が登場します。

 5条には「摂政」が規定されていますが、現代において「摂政」が登場する場面は少ないようです。

 6条では1項に「内閣総理大臣」、2項に「最高裁判所」、「最高裁判所の長たる裁判官」が登場します。

 ここまでで日本を構成する人や主要な機関が登場します。うまくできていると思いませんか?

 続いて7条を見てみましょう。3号に「衆議院」、9号には「外国の大使及び公使」が登場します。大使や公使は憲法上に根拠を持つ数少ない役職です。

 このように見てみると憲法の第1章に多くの人や機関が規定されていることがわかります。

 

 第2章は9条しかありません。現在議論となっているように、第2章に「自衛隊」が明記されれば、「自衛隊」も憲法に根拠を持つ存在ということになりそうです。

 では「自衛隊」とは何でしょうか。この問いは実は簡単なものではありません。「自衛隊」の実質的な定義を正確に言える方はほとんどいないと思います。どこに規定されているかもわからないという方が多いのではないでしょうか。ネットレベルでもいいので調べて考えてみると現在の改憲議論についての理解も深まるかもしれません。

 

 第3章は人権についての規定なので、いったん飛ばします。

 

 国を構成する機関についてまとめて見るためには第4章以降を見ることになります。

 例えば皆さんご存じの「国会・内閣・裁判所」といった機関です。「三権分立」という言葉を学校で習った記憶があるのではないでしょうか。国会は41条など、内閣は65条など、裁判所は76条1項などに登場します。

これ以外に、どのような機関が定められているのでしょうか。

 三権から考えると、国会を構成する衆議院と参議院が定められています。内閣については内閣総理大臣と国務大臣が定められています。裁判所については最高裁判所と下級裁判所が定められています。

 三権以外で何かないかと探してみると、「会計検査院」(90条)という機関があります。最近、ある問題でその判断が話題になりましたね。会計検査院は決算を検査する機関であり、三権から独立した機関です。憲法に直接の根拠を持つ数少ない機関です。

 

 では、我らが弁護士は憲法上に根拠を持つのでしょうか。

 弁護士が主に属する司法の領域については前述の裁判所が規定され、76条3項に裁判官も定められています。そして最高裁判所の規則制定権の規定(77条1項)の中に「弁護士」とあります。「検察官」(77条2項)も最高裁判所規則に従うという形で規定されています。しかし、同規定は最高裁判所が規則を定めることができ、司法関係者はそれに従う義務があるという程度の意味しかありません。それではあまりに寂しいです。

 そこで他に弁護士について規定していないか探すことにします。

 少し戻ると、ありました。

 

 「弁護人」(34条、37条3項)。

 「弁護『士』」ではなく「弁護『人』」になっていますね。刑事弁護を担う場合、弁護士の呼称は「弁護人」になります。肝心の規定のしかたは「弁護人を依頼する権利」、「弁護人の出席する公開の法廷」(34条)、「弁護人を依頼することができる」(37条3項)というように刑事手続に必要な存在として積極的に規定されています。これで胸を張って、憲法に根拠を持つ職業であると言うことができますね。

 このように弁護士は憲法上に根拠を持つ数少ない職業であり、公務員でない職業として憲法上の根拠を持つ唯一の職業です。やはり弁護士は憲法を大切にしないといけないと思う今日この頃です。

投稿者:河野邦広法律事務所

結婚と姓について

2019.03.26

 2019年3月25日、東京地裁で選択的夫婦別姓を主題とする裁判につき、請求が棄却されたとのことです。

 2015年に最高裁で現行制度を合憲とする趣旨の判決が出ているため、同判決当時から現在まで社会情勢の大きな変化がない限り判断が維持されるのではないかという予想はありました。そのため、短期的視点では今回の棄却判決も、そこまで大きな驚きはありませんでした。

 しかし、長期的視点では、夫婦別姓制度について議論が進んでいないことに多少の驚きがあります。実は、私が大学1年生の頃、基礎科目の講義の中でディベートを行った際に私の班が選択した議題が「夫婦別姓制度」でした。当時の議論内容について詳しくは書きませんが、婚姻の本質や事実婚との相違といったことから考えていた記憶があります。一人の大学生にすぎなかった私たちが20年以上前に議論していた夫婦の姓についての問題が、四半世紀経った今、まだ大きな進展を見せていないことは驚きです。

 同制度についての昨今の議論は「姓を変更する者の社会生活上の不便」といった事実上の話にスポットが当てられているように思われます。本来、夫婦の姓の問題は前記のような「婚姻とは」という視点から考察されるべきものであると思います。

 では「あなたの意見は?」と聞かれると難しい点もあります。

 夫婦が相互に助け合って協力しながら生活するという婚姻の性質や夫婦の一体性を強調すれば、夫婦の姓を統一することにも合理的理由があると思います(①)。また婚姻により包括的、画一的な法的効果を生じさせる現行の制度においては夫婦によって効果が区々となることはなじまないかもしれません(②)。しかし、①については内縁関係が社会的に認められているなど、姓の統一が夫婦の相互扶助や一体性と必ずしも関係しないことは一般的に受け入れられていると考えられます。また②については社会の変化に伴い、婚姻の性質も変化しました。現代では過去に比べて個人主義が推し進められ、婚姻の意味も個人により多様になっています。近時では婚姻の契約的側面が注目されることも増えてきました。こういった社会の変化から考えれば、婚姻に伴う効果やこれを社会に反映する制度についても多様性が求められると考えてよいのではないでしょうか。したがって、これまでのように画一的な婚姻の性質などから導かれていた夫婦同姓制度の理論的根拠は必ずしも妥当しなくなってきていると思います。

 その上で、私の見解について述べると、まず前記のとおり、婚姻そのものの多様化により、婚姻に関する制度の多様化も求められていると考えます。そして私は先日のブログ(2019年3月14日)に書いたように、人の幸せは選択できることにあると考えていますので、姓についても選択できることが幸せであると考えます。したがって個人の幸せを考えるならば、夫婦で同姓となることも、別姓となることも選択できる制度の方がよいということになります。かなりシンプルですが、そういうことです。

 なお、夫婦別姓を導入した際に予想される戸籍の問題や子の姓の問題ですが、外国人と結婚する場合について大きな問題となっていないようであれば、日本人どうしの場合にだけ問題にするのは一貫しないように思われます。そうすると夫婦別姓を容認する制度について障害は少なくなってきているのではないかと思われます。

 私の見解に対しては、法政策の議論が抜けているなどのご指摘があるかと思いますが、そういった議論は内容が難しくなるので、このブログでは控えさせていただきます。

 

 何はともあれ、前記の訴訟は最高裁まで争うようなので、どのような結論が出るか、注目したいと思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

医学部入試問題

2019.03.23

 平成31年3月22日、東京医科大学の過去の医学科入試において不正が行われていた件で、元受験生の方々が同大学を被告として損害賠償を求めて東京地裁に提訴した報道がありました。

 この問題が大きく採り上げられたのは平成30年の7月から8月でした。当時、私が入院していたこともあり、興味を持って報道を拝見していました。東京女子医大の「創立者の想い」を読んだりもしました。この問題については様々な識者の意見が述べられており、私もこれらの意見のいずれか、部分的に同意ということで、特に改めて述べることはありません。敢えて角度を変えて述べるとしたら、女子の進学、就業については過去に比べれば進歩したものの、未だ進歩の途上にあることを忘れてはなりません。そして変化により新たな歪みが不可避的に発生するのであり、その歪みから目を背けてはいけません。問題の解決のために現在苦しんでいる人や、これから進学等に臨む人の意見を聞くことも大事ですが、問題の本質を理解するためには、過去に進学を希望することすら認められなかった世代の方々、特に進学できなかった方々の話を聞くことが必要だと思います。現在メディアで発言できる方々は、進学できた方がほとんどです。医学部入試問題もそうですが、進学できなかった方々の声の方が問題の本質を理解しやすいともいえるのであり、このような方々の声をメディアその他、様々な方面で発信し、耳を傾ける必要があります。

 話を戻しますと、医学部入試についてはこの問題以外にもたくさんの問題があると思います。

 まず私大の医学部に入学し、卒業するためには6年間で数千万円の学費が必要です。私が知人等の医師から聞いた私大医学部の学生生活の状況から計算すると、学費以外の生活費や交際費も相当の金額になるはずです。入学前の受験についても子どもの頃から塾やら予備校やらに相当の費用が投じられていることも想像に難くありません。このような費用がかかるのでは相当裕福な家庭に生まれない限り、私立の医学部を志望することはできません。この点については「国立に進学すればよい」という意見もあるでしょう。この反論についてはある程度理解できます。しかし、医学部入学がほぼ医師になることと同義の制度において、その入口で貧富の差があからさまに反映されることに不安や不公平を感じます。例えば受験生の選択肢が不当に狭められる可能性を無視してはいけません。というのも医学部は大学の偏差値に関係なく、ある分野において優れた研究を行っている大学が多数存在し、これは国立、私立関係ありません。そのため、ある分野を研究したいと思った裕福でないが優秀な受験生がいた場合に、その分野について優れた成果を上げている大学が私大であるということはあり得ます。この場合に親の財力で選別してしまうと、このような優秀な受験生の進路は不当に狭められてしまいます。これは研究成果の話に限らず、「医師としての精神」などについてもあてはまります。このような観点から、どうしても「その私大」に入学したい受験生も存在するのです。したがって「お金がないなら、国立に行けばよい」ということにはなりません。

 また今回の医学部入試問題でも明らかになったように、医療の現場は多様な能力により成り立っています。この多様な能力とそれが秘める可能性を親の財力という篩で落としてしまうことは妥当でしょうか。

 私は医学部について、ある程度、財力に関係ない選択ができるようになるべきであると考えます。そしてそのような制度が整備されることを願っています。

 

 もう一つ、私が相当以前から思っていたことがあります。

 それは、埼玉県に国立の医学部を設置してほしいということです。

 確かに埼玉県には防衛医科大学が存在します。しかし防衛医科大学は卒業後の進路に制限がある(と聞きます)など、特殊な大学といえます。他の国立大学と同様に、大学を卒業後、その地域に定着しやすくするような制度設計が可能な医学部が埼玉県にも存在しなければ、他の都道府県と平等ではないと思うのです。

 また現実的な問題として、最近、埼玉県に医師が不足していると聞きます。特に小児科医が少ないのではないかと聞いています。この現象が国立大学医学部の存否と関係するか否かは明らかではありませんが、整合はしています。

 一刻も早く、埼玉県に国立大学の医学部を設置してほしいと願います。

 

 この他にも医学部入試に関して外部から見て感じられる問題点は書き切れないほどあります。また、医師の過酷な労働環境など、医療の現場についても問題は山積みでしょう。医学部入試が医師になることとほぼ同義の制度において両者の問題は一体となって検討されるべきであると思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

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