弁護士ブログ

子どもが教育を受ける権利(3)

2019.05.30

5.もう一つの問題

 前回のブログでは子女が生まれた家庭の貧富の差と学力について述べました。

 では貧困家庭の子女を救済すればそれで良いか,というとそういうわけではありません。

 裕福な家庭に生まれて,高いレベルの教育を受けた子ども達の中には反対に,勉強以外にやりたいことがあるのにやらせてもらえないという子もいます。ある医師の家系に生まれた方が医学部以外の学部に進学したら家の中で相手にされなくなったという悩みを聞いたこともあります。

 子どもの背中に翼があるという話がありますが,翼があっても飛ぶことを欲しない子どもは存在します。むしろ翼を欲しがる人がいるならば,もぎ取ってくれてやりたい,と思うほど悩んでいる子どももいるでしょう。これを受験に当てはめるなら,受験以外にやりたいことがある子どもは,裕福かつ(悪い意味で)教育熱心な家庭に生まれてしまったがために,幸福を感じられないのです。そういった子どもへの配慮もあってしかるべきです。

6.現代における子どもの教育を受ける権利

 繰り返しになりますが,女子の進学については社会が再び動き出しました。しかし問題の発端となった私立大の医学部も,話題の祝辞が述べられた東京大学も,結局,その学生のほとんどは裕福な家庭の子女です。そういった子女は同学年の子女の何パーセントを占めるでしょうか。今,動き出した議論はつまるところ,勝者たちの子女に限定された公平性の問題の域を出ないのです。

 また裕福な家庭に生まれた子女の中にも,ありがた迷惑な教育を押しつけられて苦しんでいる子どもがいるにもかかわらず,「裕福なのだから,ありがたく思え」と言わんばかりに放置したり,辛い思いをさせたりしていないでしょうか。

 現在社会が議論の対象としている子女だけではなく,もっともっと多くの子どもたちが,受けたい教育を受けられず,または受けたくもない教育を押しつけられて苦しんでいます。こうした多くの子どもたちに目を向けて議論をすることが必要です。

 憲法は「その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利」(憲法26条1項)を保障しています。

 今一度,憲法の理念を思い出し,より多くの子どもが適切な教育を受けられる制度,環境が整備されることを願います。

投稿者:河野邦広法律事務所

子どもが教育を受ける権利(2)

2019.05.27

3.現代における教育事情

 偏差値を指標とすることの危険性を論じるためには現代の教育事情について述べる必要があります。そして現代の教育事情について述べる前提として,私が子どもの頃の教育事情について触れさせていただきます。

 私が子どもの頃は現在のような商業的な塾が普及しておらず,受験に関する情報やノウハウも蓄積されていませんでした。例えば英検の過去問集などというものすら私の手元にはなかったと思います。このような時代においては,塾に通うことや情報収集をすることが必ずしも一般的ではなく,塾に通うこと等で有利になれる,という状態でした。

 しかし現在では全国展開するような大手の塾が一般化し,過去問やノウハウが蓄積され,情報があふれかえっています。このような時代においては塾に通うこと等が受験の必要条件となり,これができないことは圧倒的に不利になります。そして塾に通うことをはじめ,情報,ノウハウを入手することは教育産業内で形成された流通プロセスの中で商業化,すなわち金銭取引の対象となっています。その結果,資力のある裕福な家庭の子女が受験に有利となり,貧困家庭の子女は圧倒的に不利になります。極端な表現を用いれば,スタートラインにすら立てないこともあります。

 このような現象は大学入試にも当てはまります。大学入試レベルであれば,幼いころから高いレベルの学校に通ったり,塾に通ったりして正確な情報を得て,高い質の教育を受け,正しい努力をすれば,いわゆる上位の大学に合格することはそれほど難しくありません。反対に地元の公立小学校,公立中学校に通う場合,高校入学の時点で,前述した高いレベルの教育を受けた方々との間に,相当の学力差が生じてしまうことが多いです。たとえ地元の公立進学校に進学したとしても,受験対策はしてくれないことが多いので,逆転するには相当の要領と努力が必要になります。

 結局,現代の教育事情においては,大学入試レベルにおける結果が,生まれた家庭の貧富によりおおかた決まってしまう状態なのです。

4.偏差値を指標として強調することの危険性

 このように現代の教育においては大学入試レベルにおける学力は生まれた家庭の貧富に依存します。したがって大学入試において偏差値を指標とすることを強調することは,大学入試において貧富の差を強調する結果になりかねないのです。

 先日のブログでも書きましたが,生まれた家庭の貧富の差は子どもにはどうにもできない事情です。このように子どもにとってどうにもできない事情に左右される指標に依拠して大学入試,ひいては教育が議論されることに私は危険,不安を感じるのです。

 大学入試において偏差値を指標とすることを強調するかのような発言をされている方が偏差値の「客観的公平性」を論拠として述べており,貧困家庭を差別する意識がないことについては理解しています。しかし,貧富の差を意識していないことにこそ現代教育の問題点が隠れているようにも思われます。

(つづく)

投稿者:河野邦広法律事務所

子どもが教育を受ける権利(1)

2019.05.21

 昨年から大学受験や進学等にまつわる話題が立て続けに取り上げられていますが,ここで子どもの教育について大学受験を例にして書きたいと思います。

 やや長文となるため複数回に分けて掲載します。

1.近時の議論の方向性とそれに対する不安感

 先日の医学部不正入試問題や東京大学入学式の祝辞などで女子の進学については議論が活発に行われるようになりました。このような制度的,構造的不公平が是正される方向で議論されることは好ましいことです。しかし他方で制度的,構造的不公平を是正するために極端な意見が飛び交い,進学における入試の点数や偏差値といった指標を絶対視するかのような意見が目立つことに不安を覚えます。

2.偏差値を指標とすることの是非?

 私が高校時代には,むしろ試験の点数や偏差値を基準とする進路選択については「輪切り教育」などといって強い批判に晒されていました。高校1年生の時,倫理の授業でディベートが行われ,「偏差値を基準とする輪切り教育の是非」という議題が設定されたのですが,今思えば,当時の風潮からいって,この議題で「是」の側に立つ者などいるはずありませんでした。しかし私はただ一人,「是」の方に立って数十人のクラスメートから集中攻撃を受けてしまいました。

 私が「是」の方に立ったことには理由があります。

 偏差値を指標とする教育の良いところは「客観的公平性」です。同一の母集団内における競争である限り,偏差値(入試の得点)を基準として順位,合否を決定することは恣意の介入の余地がないため,客観的公平性が保たれます。

 高校当時の私にとって,試験において客観的公平性が保たれることは生命線ともいえるものでした。というのも私の実家は常に家計が苦しく,本来であれば大学に進学することも許されないような状態でした。しかし親族や兄の協力を得て私は進学をすることができました。もし大学入試に主観が入り込む余地があったり,財力によるスクリーニングがあったら私は絶対に大学に進学できませんでした。ですから,そんな私にとって,当日のペーパーテストのみによる一発勝負は公平かつ究極の自己責任による勝負であり,大変ありがたい制度だったのです。

 こういったことを高校入学当時から意識していたため,客観的公平性が保たれる偏差値教育に対して,私は好意的でした。こういった考え方は私の事情を知らない一般的な方々からすれば「学力至上主義」「勉強ばかりしている」という評価になるのだろうと思います。しかし実際には私は勉強ばかりしていたわけではなく,スポーツもしましたし,部活にも力を入れていました。またテレビも視聴しましたし,漫画を読んだり,ゲームに熱中した時期もありました。ですので,事情を知らない一般人の意見などというものは的外れでありあまり意味がないと思われます。

 したがいまして私の意見としては,偏差値を指標とすることは試験の客観的公平性を確保する意味で有用であり,これにより学力至上主義に陥るとは思いません。

 では,なぜ今になって偏差値を指標とすることを肯定する意見に不安を感じるかということになります。

(つづく)

投稿者:河野邦広法律事務所

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