2019.05.27
偏差値を指標とすることの危険性を論じるためには現代の教育事情について述べる必要があります。そして現代の教育事情について述べる前提として,私が子どもの頃の教育事情について触れさせていただきます。
私が子どもの頃は現在のような商業的な塾が普及しておらず,受験に関する情報やノウハウも蓄積されていませんでした。例えば英検の過去問集などというものすら私の手元にはなかったと思います。このような時代においては,塾に通うことや情報収集をすることが必ずしも一般的ではなく,塾に通うこと等で有利になれる,という状態でした。
しかし現在では全国展開するような大手の塾が一般化し,過去問やノウハウが蓄積され,情報があふれかえっています。このような時代においては塾に通うこと等が受験の必要条件となり,これができないことは圧倒的に不利になります。そして塾に通うことをはじめ,情報,ノウハウを入手することは教育産業内で形成された流通プロセスの中で商業化,すなわち金銭取引の対象となっています。その結果,資力のある裕福な家庭の子女が受験に有利となり,貧困家庭の子女は圧倒的に不利になります。極端な表現を用いれば,スタートラインにすら立てないこともあります。
このような現象は大学入試にも当てはまります。大学入試レベルであれば,幼いころから高いレベルの学校に通ったり,塾に通ったりして正確な情報を得て,高い質の教育を受け,正しい努力をすれば,いわゆる上位の大学に合格することはそれほど難しくありません。反対に地元の公立小学校,公立中学校に通う場合,高校入学の時点で,前述した高いレベルの教育を受けた方々との間に,相当の学力差が生じてしまうことが多いです。たとえ地元の公立進学校に進学したとしても,受験対策はしてくれないことが多いので,逆転するには相当の要領と努力が必要になります。
結局,現代の教育事情においては,大学入試レベルにおける結果が,生まれた家庭の貧富によりおおかた決まってしまう状態なのです。
4.偏差値を指標として強調することの危険性このように現代の教育においては大学入試レベルにおける学力は生まれた家庭の貧富に依存します。したがって大学入試において偏差値を指標とすることを強調することは,大学入試において貧富の差を強調する結果になりかねないのです。
先日のブログでも書きましたが,生まれた家庭の貧富の差は子どもにはどうにもできない事情です。このように子どもにとってどうにもできない事情に左右される指標に依拠して大学入試,ひいては教育が議論されることに私は危険,不安を感じるのです。
大学入試において偏差値を指標とすることを強調するかのような発言をされている方が偏差値の「客観的公平性」を論拠として述べており,貧困家庭を差別する意識がないことについては理解しています。しかし,貧富の差を意識していないことにこそ現代教育の問題点が隠れているようにも思われます。
(つづく)
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