2020.11.27
「桜を見る会」の前日に行われた夕食会の費用について検察庁が元首相の周辺人物から事情を聴取しているとの報道がありました。
私はこの点について2019年12月11日付けのブログで触れています。当時,この点について追及する野党に対して「他に議論しなければならない法案がある」「無駄な時間を費やすな」と言いたい方々,また実際に言っていた方々に対して,その時解消しなければ長期的にはさらに「無駄な時間」を費やすことになる可能性を指摘しました。
あの時,疑惑について解消していれば今頃再びこの話をする必要は無かったわけです。そして今はコロナウイルスの感染爆発の瀬戸際という重要な時期になってしまいました。
「言わんこっちゃない。」「それ見たことか。」と言いたいところですが,それよりも今後さらに「大事な時期」が訪れるかもしれませんので,その時に本件を問題にしないで済むように,本件について徹底的に解明しておくべきなのではないでしょうか。
この期に及んで野党やマスコミに対して「今,この問題を採り上げるべき時期なのか?」などと述べているコメンテーターが散見されます。この方々に言いたいのは,「では,いつ採り上げるべきか?」ということです。答えは明白です。2019年に本件が明らかになった時だったのです。「この問題を採り上げるのは今なのか?」と今,述べている方は,きっと2019年12月にも同じことを述べていたと思います。そして,いつまでも本件が採り上げられずに放置され,忘れ去られるという,疑惑の対象の方々にとって都合の良い結果を招くのです。このようなコメンテーターは悪意で発言しているとまでは思いませんが,悪意でないとしたら,そろそろ気付いていただかなければならないと思います。
本件について採り上げている報道の中で目立つコメントは「首相は忙しいから収支までチェックできない。」というものです。このコメントはつまり秘書がやったことについて首相は知らないから責任がない,と言いたいのでしょう。この点については当時の首相動静などからチェックする時間も無いほどの状態であったかはわかると思います。なお,この論法によってしまうとチェックをしていない者ほど罪を免れる構造になってしまいますが,それが望まれる結論なのでしょうか。それとも基準を恣意的に適用して,守りたい人だけ守るという,いつものパターンなのでしょうか。
本件についてもう一つ問題となるのは,「桜を見る会」に招かれた人物の属性についてです。2019年12月頃の報道では,むしろこの点に着目していたマスコミが多かったように記憶しています。疑惑の対象者は,本件についてお金の出入りだけ処理して「全て説明した。」と述べて終わりにしようとしています。マスコミはこの点も忘れずに報道する必要があるように思われます。
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2020.10.30
引き際を誤ると自分の首を絞めることになる場合があることについて日本学術会議の任命拒否問題を例にして述べましたが,これと似たようなことが大阪市で起こっています。
問題となっているのは,大阪都構想の住民投票に関して,大阪市を4つに分割した場合のコストとして218億円を要する可能性がある,という報道に対して,大阪市長をはじめとする都構想推進派と思われる方々が「誤報」であるとしている問題です。この問題は推進派とマスコミの間にとどまらず,大阪市財政局の職員の処分にまで及んでいるようです。
この問題には複数の論点がありますが,そもそもの問題として上記報道は「誤報」なのでしょうか。
「誤報」の定義は複数ありますが,少なくとも権限のある機関が出した情報をそのまま報道することが「誤報」に当たらないことは明らかでしょう。例えば内閣府がリリースした統計数値をそのままマスコミが報道し,後日計算方法が誤っていたということが過去にありましたが,これは「誤報」ではありません。今回の大阪市の報道についてもマスコミは大阪市財政局が出した数値を報道したのですから,「誤報」には当たらないはずです。
誤っているとしたら大阪市ということになりますので,責任は大阪市ないしその首長にあるということになります。
上記報道が誤報ではないとして,推進派は218億円という数値が「捏造」された数値であるとも述べています。
「捏造」とは簡単に言えば「でっちあげ」ということです。今回の大阪市財政局の試算は「でっちあげ」なのでしょうか。報道によると「捏造」と主張する方は理由として考慮要素が足りないといったことを述べているようです。しかし,考慮要素の過不足をもって「捏造」になるのであれば,政府やシンクタンクが出している予測数値も全て「捏造」になってしまうでしょう。またこれを今回の住民投票に当てはめれば,都構想推進派が試算した大阪市廃止によるコスト減等の予測数値,試算も反対派から見れば考慮要素に過不足がありますから,全て「捏造」です。つまり,都構想推進派の主張を突き詰めれば都構想推進派の主張も根拠がなく「捏造」であり,これを報道(広報を含む)することは「誤報」になるということです。都構想推進派はこの点を見落としたか,敢えて無視をして強弁しているように見えます。その意味で都構想推進派は既に引き際を誤っていたように思われます。
さらに言えば,都構想推進派は大阪市を4区に分割した場合に,どの程度のコストを要すると考えているのでしょうか。この数値を都構想推進派は明確には出そうとせず,正確な計算,数値を聞かれるとはぐらかすような態度に出ていることがわかってしまいました。都構想推進派は上記「誤報」「捏造」の主張を引かなかった結果,自分達が聞かれたくない点について説明を求められる立場になってしまったということです。都構想推進派が自己に有利な数値を持っていれば当初から出ていたはずで,いつまでたっても示されないことで住民に「もっとコストがかかるのでは?」「他にも隠し事があるのでは?」という疑念を抱かせてしまったかも知れません。結果的に都構想の説得力を一気に下げてしまった可能性もあります。この点においても都構想推進派は引き際を誤ったといえます。
このように見てみると,都構想推進派は住民投票が近いこともあり,問題となった当初から「引くに引けない」状態であったのかもしれません。住民投票で賛成多数になれば自分達が言ったことも忘れてもらえる,正当化されると考えてその場しのぎの恐怖政治を行っているようにも見えます。特に大阪市長が責任を持つはずの大阪市財政局の試算の正当性を自ら否定し,処分を下すことは首長自身の責任をも認める意味を内包する行政行為であり説明に窮するものです。この構造は,いわゆる森友問題などで官僚の方々に起こった不幸な事件を彷彿とさせます。
よく考えるべきなのは,都構想推進派が引くに引けないとしても,住民投票で賛成多数となった場合,上記の問題が現実の問題として大阪市と大阪府に突きつけられることになるということです。その時にはきっと,言い訳と帳尻あわせのための「捏造」が繰り返されることが目に見えています。かかったコストがなかったことにされ,必要のない予算が計上されるのです。ここ数年,日本国民は「隠蔽」,「捏造」や「論点ずらし」ばかりを見せられ続けて疲れ果てています。これ以上醜く卑怯な政治につきあわされないためにも,先々のことを考えた投票行動が望まれます。
まとめの言葉として,引く勇気も重要なのです。
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2020.10.30
現在,国会では日本学術会議の任命拒否の件が問題となっています。
この問題は当初,日本学術会議から推薦を受けた会員について内閣総理大臣が任命拒否できるかが論点になっていました。そこで日本学術会議法7条2項を見てみると「会員は,第17条の規定による推薦に基づいて,内閣総理大臣が任命する。」と規定されています。そして同条項の解釈については法改正当時,中曽根元首相が明確に「政府が行うのは形式的任命にすぎない。」と答弁しています。そうすると議論をするまでもなく,内閣総理大臣には任命を拒否する権利はないことになります。
本件でも任命拒否は違法ということで,首相が任命しなおせば話が終わったと思われます。しかし首相は違法性を認めなかったため,任命拒否の理由を答えさせられることになってしまいました。ここで首相は引き際を誤った可能性があります。
任命拒否の理由について首相は当初,「総合的,俯瞰的」という曖昧模糊とした理由を述べていました。しかしその後首相は「名簿を全部は見ていない」と言い出しました。そうなると「総合的,俯瞰的」という言葉と矛盾が生じます。そもそも「総合的」とは「全体をまとめる」という意味合いであり,「俯瞰的」とは「高い視点から全体的,大局的に考える」という意味です。つまり「総合的,俯瞰的」に判断するためには全体を見渡さなければならないはずです。それにもかかわらず名簿の全体を見ていないということでは「総合的,俯瞰的」に判断できるはずがありません。このような矛盾が生じてしまったため,首相は任命拒否の「本当の理由」を探られる結果になりました。ここで首相は再び引き際を誤った可能性があります。
現在では任命拒否の理由について「大学のバランスが悪い,旧帝国大学が多い,若い研究者が少ない」などの理由を述べているようです。しかし105人のうち6人の任命を拒否したところで大学や年齢のバランスが取れるのでしょうか。また任命拒否された6名の教授の所属は東大2名,京大,東京慈恵会医科大,早大,立命館大とのことです。確かに旧帝大が3名含まれていますが,これでバランスを補正するほどの作用があるとは思えません。むしろ旧帝大以外と同数を任命拒否してしまうと効果が相殺されてしまいます。また若い研究者が少ないと言いますが,日本学術会議法10条が各項で会員の要件として「優れた研究又は業績がある会員」と規定していることの帰結であると言わざるを得ません。若い研究者を増やしたいのであれば要件の変更を検討するのが筋です。いずれにしろ首相はしゃべればしゃべるほど根拠法や自己の判断・答弁と矛盾が生じる状態に陥ってしまっているように見受けられます。
このようになってしまった原因は,初期の段階で無理筋と見極めることができず,その場しのぎの答弁を押し通してしまったことにあると思われます。
訴訟などでもあてはまりますが,先の見通しが不明である場合,また自己の不利が明確である場合,引く勇気,撤退する勇気も時には必要です。強弁することで,後になって自分の首を絞めることになることはありがちです。
似たようなことが大阪市でも起こっているようなので,項を改めて述べたいと思います。
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2020.08.10
憲法は一定の者を対象に憲法を尊重し擁護する義務を負わせています(99条)。
その対象は天皇,摂政,国務大臣,国会議員,裁判官,その他の公務員です。
同条文から内閣が憲法尊重擁護義務を負うことは明らかですから,内閣は憲法に定められた人権規定のみならず国の機構について定めた規定についても遵守しなければならないことになります。
近時,野党が臨時会の召集を要求したのに対して,内閣が10月以降の召集を検討しているという報道がありました。10月以降の召集が遅きに失することは国民の誰もが思っていることでしょう。しかし遅すぎる召集時期が罷り通ってしまいそうなことも事実です。なぜこのようなことが起こるのでしょう。
少しテクニカルな話になりますが,国会の召集権限は誰にあるのでしょうか。憲法は内閣の助言と承認により,天皇が国会を召集すると定めています(7条2号)。同条から国会の召集権限は内閣にあるとされています。そうすると臨時会の召集権限も内閣にあることになりますが,例外的に義務化される場合があります。それが臨時会の規定で,「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば,内閣は,その召集を決定しなければならない」(53条後段)とされています。
したがって今回のように国会から適法に臨時会の召集を要求された場合,内閣は臨時会の召集を決定しなければなりません。この点について安倍内閣は過去に2度,臨時会の召集を放置し,1度目は結局召集せず,2度目は放置した後,召集した日に衆議院を解散したとのことです。このように現政権は臨時会の召集について極端に消極的な性格を有しており,今回も同様の態度を採っています。
このような事態が生じてしまうことの原因の1つは,憲法その他の法律が臨時会の召集について期限を設けていないことがあるといえます。国会議員は臨時会の開会日について指定する権限がありませんし,召集しないことについて法的ペナルティも規定されていないため,内閣は事実上,期限を延ばし放題になってしまうわけです。では期限を定める法改正をすればよいかというと,実効性(強制性)確保の点から疑問があります。
召集決定の期限について学説は,相当な期間(長くて2,3週間)のうちに臨時会の召集を決定すべきであるとしています。これによれば今回の召集要求が遅くとも令和2年8月1日に行われたとすると同年8月下旬には召集を決定しなければならないことになりますが,決定される様子はありません。
国民としては,臨時会が召集されない事態をどのように考えるべきなのでしょうか。
重要なのは,臨時会を開く目的です。臨時会を開く目的の緊急性,重要性その他の事情により召集を決定するために必要な期間や召集時期も変化するでしょう。内閣はこれらの要素を検討しつつ速やかに召集時期を決定すべきと考えられます。
そもそも憲法が臨時会の召集時期を内閣の裁量に委ねた理由は,内閣が国会を通じて国民の信任を受けていると推定されるからであると考えられます。このように内閣が国民の信任を受けていると推定されるからこそ,内閣は国会(その先にいる国民)の要求に答えなければなりません。国会が早期に臨時会の召集が必要であると要求するのであれば,これに誠実に答えなければなりません。現在の内閣の態度には国会の先にいる国民について誠実に考え,答えている様子が見受けられないように思われます。平時においては強弁と不作為でごまかせたとしても,有事に強弁と不作為は通用しません。有事の不作為は作為に勝る悪となり得ることは歴史が証明していると思われます。
国民は臨時会の召集に関する内閣の態度からも,その内閣が真に国民のことを考えて行動しているかを判断することができるのではないでしょうか。
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2020.05.13
コロナウイルスの感染拡大防止に自治体が奔走し,国民が苦境に立たされる中,さして緊急性が認められない検察庁法改正案が国会において急ピッチで審議されているようです。
先日のコラムでも言及しましたが,コロナウイルス関係の審議が逼迫する中,桜を見る会問題などについては「今やることではない」と封殺しておきながら,これより重要性も緊急性も認められない検察庁法改正に審議の時間が割かれていることに,与党支持者は疑問を抱かないのでしょうか。
検察庁法改正の問題点は大きく分けて2点,①最近実施された検事長の定年延長の問題と②検察官の定年延長について内閣が介入できるようになるという問題です。
まず①最近実施された検事長の定年延長の根拠規定は国家公務員法であると説明されています。本来国家公務員法の定年延長規定については特別の規定が存在する場合には適用されないと規定されており,その具体例が検察庁法でした。この点は立法時の問答にも記載されていたようです。今回の定年延長はこの点について閣議で解釈変更を行い,国家公務員法を検察官に適用したと政府は説明しています。
しかしこのような適用が可能であるかについては強い疑問が残ります。そもそも国会の立法意思として検察庁法の規定を除外した法律が成立している以上,適用除外の根拠となる検察庁法の規定が改廃されない間は国家公務員法の該当条文を検察官に適用することはできないのではないでしょうか。適用できない場合,本件検事長の定年延長については根拠規定を欠くこととなり,検事総長にも任命できないこととなります。改正後の検察庁法を遡及適用することもないと思われますので,結論は変わりません。
また仮に解釈変更により適用ができるとする場合,解釈変更の理由となる具体的な事実が必要となります。見たところ今回の検事長の件より前に検事長の定年延長が議論されたことはなかったと思いますので,解釈変更を行う理由となる具体的な事実は今回の検事長の件,としか言いようがありません。この点は動かせない事実であるはずであり,内閣もカルロス・ゴーン氏の捜査に関係しているようなことを述べていた記憶があります。しかしそのような事実が解釈変更を必要とする理由に当たるとは考えられません。そもそも検察官は基本的には司法修習の中で選りすぐられた人材が入庁しているはずです。まして検事長になるような方に大きな能力の差があるとは到底思えません。つまり検事長が特定の誰かでなければ勤まらない,というほどに検察庁が人材不足に陥っていることなどあり得ません。同程度の職務を全うする人材は多く存在するはずです。それでも検事長の定年を延長しなければならない具体的な理由を内閣は示せていないと思われます。
この点について例の定年延長と検察庁法改正は関係がないと述べる方も存在しますが,例の定年延長が発端となっていることは明らかであり,そのような意見は,むしろ今回の問題を有耶無耶にしたい無理筋の擁護なのではないかとすら思えてきます。
次の問題は②検察官の定年延長について内閣が介入できるようになるという点です。
この点を理解する前提として,検察官の職務や性質について簡単に説明します。検察官の職務はおおまかにいうと,刑事事件について捜査をすること,裁判所に公訴を提起して公判に立ち会うことです。公訴提起は検察官しかできないこととされています(刑事訴訟法247条)。公訴提起されなければ有罪にもなりませんから,ある意味,検察官は有罪無罪の判断に近い権限を有していると評価できます。この点において検察官の権限は大きく,かつ人権にかかわる重要なものと言えます。別の言い方をすれば,検察官の職務には裁判官のような性質も含まれているということです。
このように検察官は強力な権限を有しているのですが,検察官が訴追する対象にはほぼ制限がなく,現職の国会議員や内閣総理大臣であっても訴追されてしまいます。つまり検察官は時の政権を倒してしまうほどの権力を有しているのです。そのため政権が最も恐れる機関は検察庁といっても過言ではありません。
では政権が最も恐れる検察庁のトップ人事に内閣が口を出せることになったらどうでしょう。まともな思考であれば検察庁の政権に対する追及が鈍ってしまうのではないかと考えるはずです。実際に追及が鈍らないとしても,追及が鈍ってしまうかもしれないという疑いをかけられることが既に大きな問題です。
もちろん検察庁が独善に陥らないための牽制は必要ですが,今回の改正は不当な制度と評価せざるを得ないと思われます。
上記の他にも,今回の解釈変更で検事長の定年にまつわる問題が解決するのであれば国家公務員法が検察官に適用されることになるが,そのことと改正検察庁法との関係はどうなっているのか。今回の改正が必要となるような事実(立法事実)が過去に存在したのであれば,その時に解釈変更や改正の議論がなかった(または不要とされた)のはなぜか。立法事実が過去に存在しなかったのであれば,今回の改正は例の検事総長人事の1点を理由とするものということになり不当ではないか。また問題となっている検事長が検事総長に就任した上で改正検察庁法が適用されるとしたら,いつまで検事総長で居続けることができるのか等,様々な問題が指摘されています。この件は権力の発言を鵜呑みにせず,自分で考えてみる力が試される事案だと思います。
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2020.05.11
緊急事態宣言により全国の学校が休校となっています。
通常の入学式・始業式は4月上旬ですから,休校期間は1か月以上に及んでいます。そして緊急事態宣言が5月末まで延長される可能性が高いため,既に2か月の休校が見込まれています。
学生にとっての2か月は大変大きいといえます。特に受験を控えた小学6年生,中学3年生,高校3年生にとっては受験までに履修範囲をカバーできない可能性があり,死活問題といえるでしょう。その中でも高校3年生は浪人生との関係では相当のハンディキャップになります。この問題はどうにかしなければなりません。
現在検討されているのは,①緊急事態宣言解除後の残された期間で何とか履修する,②9月入学・始業に制度を変更する,③全員留年する,の3つです。
緊急事態宣言が5月末に解除される可能性が高いことを前提とすると,③については論外だと思います。①については小・中学校のスケジュールがかなり厳しくなると思われますが,その点については特別措置で優先順位の低い履修範囲を削除するなどの手当は可能であると思います。少なくとも夏休みが全くないなどという状況にしてほしくはありません。あれだけ暑い夏の期間に子どもをフルで登校させたら亡くなる子どもが出ると思います。
現在,最も熱い議論が交わされているのは②9月入学・始業への制度変更の可否ではないでしょうか。
この点についての私の意見は,大学だけ9月入学・始業とする制度に変更し,小・中・高校については4月入学・始業のままにするというものです。
小・中・高校を4月入学・始業のままにする理由は,現在の1学期⇒夏休み⇒2学期⇒冬休み⇒3学期という流れに学習ペース上,無理がないと思うからです。学習進度に差が出やすい1学期の早い時期にゴールデンウィークがあり,1学期終了後も長期の夏休みがあることで,遅れを取り戻す機会が充分に確保されています。この流れは学習進度にばらつきが出やすい小・中学校では有効であると思います。
では,なぜ大学だけ9月入学・始業とすべきなのでしょうか。
理由の1つ目は,世界的に9月入学・始業が主流であるということが挙げられます。海外から日本の大学に入学したい方,また日本から海外の大学に入学したい方にとって,日本の大学が4月入学であることは相当な不便になっています。そしてこの不便は日本の大学に海外から優秀な学生を呼び寄せることの障害になっています。世界の大学評価において日本の大学が相対的に低く評価されるファクターのひとつに「国際性」の指標がありますが,入学時期のズレは,この評価を下げる要因のひとつになっている可能性が高いと思います。世界の主流である9月入学とすることで海外の優秀な学生の受け入れが増加し,ひいては日本の大学の評価を高めることができる可能性があります。また日本から海外の大学に進学したい学生の利益にもなります。
2つ目の理由は,大学入試期間の過酷な環境を解消する点にあります。現在の大学入試は1月中旬に1次試験が行われ,2月上旬から下旬にかけて私立大学の入試,2月下旬に国立大学前期試験が行われることになっています。このようなスケジュールの結果,毎年のように雪による開始時間の繰り下げが行われ,受験できない受験生もいます。また体調管理も大変困難な時期です。今年2月には既にコロナウイルスの感染拡大が始まっていたにもかかわらず,入学試験は通常どおり実施されました。何事もなかったかのように扱われていますが,感染した受験生は少なからずいたと思われますし,さらに酷い状況になっていたらどうするつもりだったのか,と思います。
このような過酷な時期に入試を行うのではなく,4月から6月の温暖な時期に実施すれば,これらの不都合は解消されます。
3つ目の理由は,学生に高校時代を充分に楽しんでほしいということがあります。先に述べたように,私は高校については4月入学・始業を維持すべきであると考えています。そうすると高校卒業後,大学に入学する9月まで間が空きますが,この空いた期間に入試を実施するということです。現在の制度では,高校3年の12月までに履修範囲を終えて1月には入試となってしまい,特に中高一貫でない公立高校のカリキュラム上,無理があるだけでなく,高校生活最後の文化祭や部活に集中できないスケジュールになっています。これでは学校の人間関係が最も熟した時期に受験勉強に専念しなければならないこととなり,味気ないと思いませんか?卒業の少し前までは学生生活を満喫できるようにすることは学校行事や部活動を含めた人間教育のためには良いのではないかと思います。
以上の理由から,私は小・中・高校については4月入学とし,大学については9月入学とすることが理想であると考えます。
この制度に対しては,大学卒業後の9月入社には無理がある,という意見があると思います。この点について私は,入社については4月を維持するという意見です。したがって,大学生は7月に大学を卒業した後,8月以降に就職活動を行い,翌年4月に入社することになります。現在の4月入学,4月入社の制度では,事実上,大学3年生の段階で事実上の就職活動を開始し,大学4年生の前期は講義を受講できません。またテレビ局に多いイメージですが,大学3年生の段階で事実上の内定(内々定?)を得ている学生がいるようで,大学3年生と4年生で既に会社の先輩後輩関係になってしまうということがあったようです。大学3年で就職活動を開始するには当然その準備を大学2年の頃から開始しているのであり,これでは大学でほとんど勉強していないに等しいといえます。特に大学4年の1年間はほとんど意味を感じません。このような本末転倒な状況を変えるために,大学4年間は勉学に集中させ,就職活動は卒業後に行うことが望ましいと思われます。このように時間に余裕を持つことで本当に自分の就きたい職業について考えさせ,就職後の短期離職率も下げることができるかもしれません。
このような制度になると高校卒業後の半年間と大学卒業後の半年間の生活費が苦しくなるという指摘もあるとは思います。しかし大学については浪人する方,留年・休学する方も多く,医歯薬系が6年制であることを考えれば,決して非現実的な制度ではないと思います。生活が苦しい学生には給付型の奨学金を充実させることで解決を図るべきです。
いずれにしろ,現在のカリキュラムは教育を受ける権利(憲法26条1項)が予定しているであろう教育効果を上げるためには明らかに無理があります。もう少し余裕を持った制度にできれば,教育を受けた学生の卒業後の人生が,より豊かなものになるのではないかと思います。
「子どもを守れ」のかけ声だけが大きくなる昨今ですが,「子ども」のその後を見据えた制度設計についても議論されるべきではないでしょうか。
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2020.05.09
先日のコラムで憲法24条の改正について書きました。
憲法24条1項は以下のように定めています。
「婚姻は,両性の合意のみに基づいて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。」
同条項の「両性」の解釈が問題となっているということはすでに述べました。
では同条項は婚姻における「両性」に「男性と女性」のみを予定しており,「男性と男性」,「女性と女性」を含まない趣旨なのでしょうか。
そもそも24条1項は前段と後段に分けられ,前段で「婚姻の成立に意思表示の合致以外の要件が不要であること」を規定し,後段で「夫婦が本質的に平等であること」を規定しています。このように分解した上で同条項が制定された時代背景を考えれば,同条項が「両性」と表現した理由が多少理解できると思います。
同条項が制定されたのは戦後すぐの昭和21年ですが,同条項が否定しようとしたものはいわゆる家制度と圧倒的な男尊女卑です。そして家制度を否定した先にあるのが「個人主義」であり,圧倒的な男尊女卑を否定した先にあるのが「両性の本質的な平等」です。
家制度の下では婚姻も自由にできず,戸主の同意が必要とされていました。現在も未成年(現在は20歳未満)の子については少なくとも父母の一方の同意が必要とされています(民法737条1項,2項)が,戦前において父母の同意が必要な年齢は女性で25歳,男性は30歳(!)でした。ここまでくると男性差別にも見えますが,婚姻がいかに制限されていたかがわかるかと思います。このような戦前の家制度を否定するために24条1項前段は婚姻の成立要件を当事者の意思表示の合致のみとしました。
さらに戦前においては婚姻後,妻は(民法上の)無能力者とされて,財産は夫に管理されました。また子の親権も夫のみに帰属しました。このような婚姻後の夫婦間における両性の不平等を否定するために夫婦の本質的平等を規定したと考えることができます。
これらの事実を条項の文言との関係で考えると,24条1項が制定された経緯の1つに「両性の本質的平等」があったことから,条文の定め方として男性と女性を対置し明示することが必要であったということがいえます。つまり憲法は両性の本質的平等を規定するため,技術的に「両性」,「夫婦」の文言を使用する必要があったということです。そうだとすれば憲法は婚姻を男女間に限る趣旨までは含んでいなかったと考えることもできるのではないでしょうか。
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2020.05.05
5月3日は憲法記念日です。
憲法が公布されたのは昭和21年11月3日で,施行されたのが昭和22年5月3日ですので,憲法記念日は憲法「施行」記念日ということになります。憲法が公布された11月3日は文化の日になっています。
現政権は憲法改正を実現するということを言い続けており,令和2年5月3日にも首相が改正の意気込みを述べたと報じられています。その改正内容は9条が念頭にあるようですが,現憲法下における初の改正がいきなり9条というのはハードルが高いように思われます。
まずは現に改正すべき必要性が叫ばれている部分や国民の人権を拡充する方向での改正を行う方が,今後の改正手続も円滑に進むのではないでしょうか。
例えば現在改正する必要があると一部で言われているのは憲法24条1項です。同条項は以下のように規定しています。
「婚姻は,両性の合意のみに基づいて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。」
同条項は婚姻が「両性」の合意のみに基づいて成立すると規定しています。この「両性」の解釈が問題となっているようです。
というのも昨今においては同性の結婚を法的に認める国家も出現しており,日本でも同性パートナーの証明書を発行する自治体があります。こうした流れの中,憲法の同条項に同性婚が含まれるかという議論が起こっています。
ここで1つの考え方として,従来の一般的な語義に基づいて「両性」を解釈するのであれば,男性と女性を示すことにもなろうかと思います。また,その後に「夫婦」とあることからも「両性」とは男性と女性を前提としていると解釈することが素直とも思われます。こうした解釈に基づくならば,憲法は男性と女性の結婚を前提として規定したのであり,同性婚については予定していなかったという結論もおかしくはありません。
しかし憲法が掲げる個人主義(憲法13条)を前提とすると,明文で婚姻を異性間に限定することが整合しているのか,かなり疑問があります。
全ての国民が個人として尊重されるという根源的な理念から出発すれば,個人が望む婚姻形態も尊重されて然るべきであるとの結論に至る方がむしろ素直ではないでしょうか。少なくとも婚姻を異性間に限定した形で規定することで,間接的に同性婚が規定外にあるといった「差」が生じることは憲法が積極的に予定するものではないと思われます。
24条については改めて述べるとして,前述のような意図しない「差」が生まれるおそれを放置するよりも,改正により文言を変更することが望ましいのではないでしょうか。例えば「両性」,「夫婦」を「両当事者」のような文言にするべきなのかもしれません。
このような改正案が国民に提案された場合,果たしてどの程度の投票率となるのか,そして改正案は過半数の賛成を得られるのか,非常に興味があります。
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2020.04.21
政府は住民基本台帳に記載される者に一律10万円の現金給付を行う政策(特別定額給付金)を決定したという報道がありました。しかしその後,「手を挙げた人のみ」給付するということになり,内閣は閣僚全員が10万円の給付を受け取らないと申し合わせたとのことです。同方針は自民党議員にも適用されそうな勢いです。
この方針で1つ気になったのは,受け取らないのは閣僚,国会議員本人のみということでしょうか。それとも閣僚,国会議員本人のみならず家族全員が受け取らないということでしょうか。
特別定額給付金は世帯主に給付されます。仮に閣僚本人が世帯主であると仮定して,配偶者と子ども2人の世帯である場合,世帯主に40万円が支給されることになります。閣僚本人のみが辞退するなら,当該世帯には30万円が支給されますが,家族全員が辞退するなら0円ということになります。
ここで辞退する趣旨が「閣僚は外出自粛要請等によっても生活が苦しくなるということはないから」ということであれば,世帯収入の発想が適用される余地があり,世帯収入の減少がない以上,家族全員が辞退することも筋としてはあり得ることになります。
これに対して辞退する趣旨が「閣僚個人が給付を受けることは国民の理解を得られないから」ということであれば本人のみの辞退で足りるでしょう。しかしこの場合,国民の理解が得られないような政策を実施したことになり,矛盾挙動の感が否めません。
いずれにしろ,行動としておかしいことは理解いただけるのではないでしょうか。
このようなちぐはぐな挙動となった原因は,政策の趣旨について軸足がブレてしまっている点にあるのではないかと思います。
この政策は,その趣旨について「収入減少の補助(救貧)」なのか,「景気対策」なのかがはっきりしないまま紆余曲折を経ており,その過程で閣僚から「現金給付では貯金されてしまい,投資にまわらない。」という意見が出ました。当該意見の「投資」は広く「消費等」のことを表していると解釈します。この意見によれば,現金給付の趣旨は景気対策に近く,給付された10万円は使われなければなりません。そうであるとすれば閣僚であろうが,国会議員であろうが給付を受けた上で給付金を使い切った方が政策の効果が上がります。したがって前記閣僚の方針は政策と矛盾することになります。
閣僚の方針から逆算して整合的に考えるのであれば,政策の趣旨は「収入減少の補助」にあると考えるべきであるように思われます。政府はそのような趣旨を明確に示さず,場当たり的に政策決定してしまったように思われます。
新型コロナウイルス対策全般に見られることですが,政策の趣旨が不明瞭なことが後手後手と評価される一因なのではないでしょうか。
投稿者:
2020.04.16
令和2年4月7日,日本の7都府県を対象に緊急事態宣言が発令されました。
緊急事態宣言の会見において首相は,感染者の爆発的な増加を回避できるかについて「すべては皆さんの行動にかかっています。」と述べました。
発言の真意はわかりませんが,「すべて」という言葉に私は引っかかりを感じました。確かに私が新型コロナウイルス(以下「コロナ」といいます。)に感染するか否かを,すべて私の責任にされ得ることについては納得できなくても特に反論しません。しかし感染拡大について私を含むすべての国民の責任にされることは,首相が前提としているであろう「責任」の意味においては,あり得ないと言い切れます。
これは現政権の特徴でもありますが,官僚人事を掌握して政策を官邸の恣にしておきながら,やるべきでないことをやり,またはやるべきことをやらないで,失敗すると官僚機構や国民の一部に責任を押しつけてきました。そして今回は全国民に責任を押しつけてきました。そもそも現在の国政の構造上,政策の主導権は政権与党(特に官邸)にあるのですから,その責任も「すべて」政権与党(特に官邸)が負うべきです。
そもそもコロナの感染拡大が頻繁に報じられるようになったダイアモンドプリンセス号の件を報道機関が一生懸命報道していた時,それを一番軽視していたのは政権与党でした。国会では与党議員が「クルーズ船の感染者数を国内感染者にカウントしている。このような虚偽の報道をする報道機関には罰則が必要だ。」などと,今考えればとんでもなく的外れな発言をしていました。そんなことをしている間に政権与党は対策を講じることができたはずです。国会の議席の3分の2を有していれば憲法上,法案を通すことは難しくありません。議論が必要かもしれませんが,これまでさんざん野党の要求を突っぱねてきた政権与党が緊急事態になってから議論の必要性を殊更に持ち出すことは説得力がありません。したがってコロナの感染拡大について事態を軽視し,対応を怠ったのは立法その他の措置を採らなかった政権与党です。よって感染拡大の責任は政権与党が取るべきです。
また感染拡大が予想より小さかった場合でも,これだけ対策が後手に回り,責任だけは前もって国民に押しつけるような政権及びこれを支持する与党は責任を負うべき立場にあります。
もっとも国民の責任の取り方がないわけではありません。間接民主制を採用する日本においては,国民が責任を取るためには主権の行使によるしかありません。つまり今回の危機にあたって怠慢・能力不足を露呈した国会議員を選挙で選ばないこと,それが国民の責任の取り方なのです。
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