弁護士ブログ

宣言する者とそれを聞く者(2)

2020.04.08

 緊急事態宣言の会見中,首相は「GDPの2割に当たる事業規模108兆円,世界的にも最大級の経済対策」を実施すると述べました。ネットニュースにも「事業規模108兆円」の勇ましい表題が踊っています。

 ここで考えてみたいのは,なぜ素直に「GDPの2割に当たる108兆円の経済対策」と言わず,「GDPの2割に当たる『事業規模』108兆円,『世界的にも最大級』の経済対策」と言うのでしょうか。「事業規模」という言葉がなければ不正確なのでしょうか。「108兆円」と「の経済対策」を離した理由は何でしょうか。

 NHKの記事によると,経済対策は「事業規模」と「財政支出」の2つで示されます。

 「財政支出」は国の会計からの支出に地方自治体の負担等を加えた総額をいうそうです。

 「事業規模」は「財政支出」に加えて,金融機関による融資や保証の枠,税金や社会保険料の支払猶予,事業に参加する民間企業の支出等も含めた総額をいうそうです。

 つまり国が負担するのは「財政支出」だけなんですね。

 今回の事業規模は108兆円ですが,財政支出は39兆円です。財政支出39兆円には2019年12月に決定した事業規模26兆円の経済対策のうち,今後効果が見込まれる19兆8000億円程度が計上される他,2020年3月までにまとめられた緊急対応策としての事業規模2兆1000億円程度も含まれます。前者は今回の新型コロナウイルスとは直接関係がないようですね。39兆円からこれらを控除すると,新たに決まった「財政支出」は17兆円ということになります。

 そうすると,実質的な国と地方自治体の負担である「財政支出」は17兆円ということになります。これでは「108兆円」という言葉のイメージからかけ離れてしまいます。

 報道では「リーマン超え」のようなニュアンスで報じられています。ここで2020年3月30日付けのニュースによると,リーマンショック時の経済対策は「国費15兆円,事業規模約56兆円」だったそうです。今度は「国費」という言葉が出てきました。先ほどの「財政支出」の定義は「国の支出+地方自治体の負担等」ですから,「国費」が「国の支出」に限る趣旨の可能性もあります。仮に「国費」が「国の支出」という趣旨である場合,リーマンショック時の「財政支出」は「15兆円+地方自治体の負担」ということになります。そうすると今回の新型コロナウイルスに関する財政支出17兆円は,リーマンショック時の財政支出より低い可能性も出てきました。

 もちろん厳しめに見た数字ですので,そうではないかもしれません。しかし言葉を厳密に分析していくと政府の言葉(及び報道)に誤解を招く表現がちりばめられていることがわかるのではないでしょうか。

 報道の側面から言うと,連日報じられていた世界各国の経済対策は上記「事業規模」なのでしょうか,「財政支出」なのでしょうか。この点は政策評価の観点から非常に重要であるにもかかわらず明確に報じられていないように思われます。ここで国(政府)が直接市場に財政支出する場合を「真水で」と表現するそうです。またもや新しい言葉が出てきてしまいました。このように報道に触れる国民は言葉に翻弄されて真相をつかみにくくされてしまうのです。話を戻すと,世界各国の経済対策は「真水」つまり政府が直接市場に財政支出するそうです。したがって日本の経済政策を他国と比較する場合には17兆円(+2兆円)程度ということになります。

 このように政府の言葉を実態に即して理解するためには用語を厳密に理解して分析する必要があります。そして日本の政策と海外の政策とを比較する場合,日本の政策について使用されている用語の意味,その指し示す範囲を海外の政策について使用されている用語と同じものに置き換えなければなりません。国民が政策を適切に評価するためには,このような高度かつ知的な作業が必要なのです。報道はその一助を担うのですが,近時の報道機関にはその能力が欠けてきているように思われます。我々は選挙で主権を行使(憲法15条1項)するために政策を適切に評価する必要があります。そして政策を適切に評価するためには報道を読み取り,分析する必要があるのです。報道機関に全幅の信頼を置くことができない現代にあっては,個人に分析能力を養う教育が必要であると強く思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

宣言する者とそれを聞く者(1)

2020.04.07

 本日,首相が緊急事態を宣言しました。

 対象は東京,神奈川,埼玉,千葉,大阪,兵庫,福岡の7都府県です。

 これにより今後は上記7都府県の住民には外出自粛等が強く要請されることになるそうです。

 ここでよく考えると「自粛を強く要請する」ということの意味がわかりません。これはつまり強制されているのではないかと思ってしまいます。しかし特措法には罰則等がないから強制ではないのだそうです。日本,特に現政権はこのようなロジックを繰り返し使用しています。以前も述べましたが,日本国民はこのような理不尽な事態に遭遇しても賢く立ち回ってしまうため,為政者に深刻に受け止められてこなかったように思われます。「賢く」と書くと良い意味に聞こえてしまいますが,悪く言えば「ダイナミズムに欠ける。」「主権の行使を逡巡している。」ということです。もっと厳しい言い方をすれば「主権者として未熟」ということかもしれません。もちろん,これは私にも当てはまります。成熟するためには何十年,何百年を要するかもしれません。世界史と日本史を並行して学ぶとよくわかりますが,日本は欧州と比較して民主政治の歴史が浅く,非常に大きく差をつけられているといっても過言ではありません。欧州では紀元前から民主制が行われているのであり,その差を埋めるには相当の時間と努力が必要になります。

 話を今回の宣言に基づく要請等に移すと,前に述べた「ちぐはぐ感」は続くようです。外出,移動を制限(自粛要請ですが,敢えてこのように書きます。)するのに,公共交通機関は動いています。「埼玉県民は東京都に入らないように」と要請しながら,高崎線も京浜東北線も,埼京線も通常運転です。また事業者に休業を要請しますが,補償の有無や範囲は明確に言いません。「補償するから休業しなさい」と命令された方がまだましかもしれません。この点については国と都で休業を要請する業種に食い違いがあり,都が実施するという4月11日までに間に合うのか,疑問です。また国と都ですり合わせをしていないことが明らかになり,国民を不安にさせる結果となったように思いました。そもそも知事に権限が付与されるとすると,国は都に対してどこまで干渉できるのでしょうか。議論が尽くされているのかも疑問です。そもそも対象地域の自治体の知事に付与される権限についても認識の食い違いがあったら,と考えると恐ろしいです。

 私がもう一つ心配なのは,学校の休校についてです。前記7都府県の学校の開始は早くても5月7日です。これに対して他の自治体については休校しないところもあるでしょう。その場合に生徒間に学習の進度に大きな差が出ます。大人にとってはたかが1か月かもしれませんが,3年間しかない中学,高校生にとっては非常に大きい遅れになります。特に3年生にとっては受験を控えた1年間であり,影響が出ることは必至です。これは浪人生にも当てはまります。さきほど「受験を控えた1年間」と書きましたが,大学受験については1次試験が1月にあるので,受験まで9か月しかないのです。しかも1次試験の実施についても混乱しているため,今年の高校3年生は本当に不幸だと思います。早めに方針を明確に定めなければ努力が水の泡,ということになりかねません。一部の受験生については人生がかかっていると言っても過言ではないので,文部科学省を中心に早急に明確な方針が打ち出されることが望まれます。

投稿者:河野邦広法律事務所

感染症検査とオリンピック開催

2020.03.31

 日本は新型コロナウイルスの検査について,現在,原則として37.5℃の発熱が4日続くことと,いったん窓口に相談することを条件としているようです。もちろん例外もあり,高齢者その他の条件を備える人は上記条件がなくても検査できるようです。

 このような検査条件は,ざっくりと「医療崩壊を防ぐため」,といった目的で設けられたとされているように思われます。しかし,この点は明言されていないので,後日,全く違う目的であったとされてしまったり,そもそも検査を受けられたのに受けなかった,などと言われるおそれもありそうです。

 それはさておき,首相や都知事の会見が頻繁に行われ,著名人が亡くなるなど,感染拡大への緊張感が急激に高まっているように感じられます(もう手遅れだという論者もいらっしゃいます。)。情報が少なすぎることと,感染者が急激に増加し続けていることから,いわゆる「終息」といわれる状態までどのくらいかかるか見当もつきません。そんな中,延期後のオリンピックが2021年7月23日に開幕すると決まり,これに向けて物事が進められていくことは確実です。

 オリンピックの開催条件についても情報がありません。この点については私個人の意見ですが,安全を考えれば,少なくとも開催地である日本において新型コロナウイルスについて終息宣言が出されることを必要条件とするのが基準として明確であると思われます。WHOが定める感染症の終息宣言の基準は,最後の感染者が完全に回復してから4週間(28日間)経過した時点とのことです。

 胸を張ってオリンピックを開催できるためには終息宣言は早めに出されなければならないでしょうから,仮に余裕を持って6か月前に終息宣言を出すとすると,その約1か月前には感染者が全く出てこない状態にしなければなりません。2021年7月23日の7か月前は2020年12月24日です。つまり今年のクリスマスイブより前に感染者が一切出ない状態にしなければならないことになります。これは実現可能でしょうか。12月から2月にかけては毎年インフルエンザが流行するように,ウイルスにとって活動しやすい状態になります。2020年の年末までに感染者がいなくなり,終息宣言のカウントダウンが始まった時に,新型コロナウイルス感染者らしき症状を訴える方が表れた場合,どうでしょう。

 日本は前記のような検査条件を設定する国です。これまでの国会でのやりとりを見ると改ざんが組織的に行われる国です。あったことがなかったことになってしまう国です。先ほどの患者さんはどうなるでしょう。想像がつくのではないでしょうか。

 そうならないように政府は遅くとも9月頃には感染者が発生しない状態にしたいと考え,実行すると思います。そして迅速に実行されれば,各専門家の方々の真摯な努力と,大半の国民の賢明な行動により閉塞感を克服できると信じています。

 しかし,そのようなポジティブなシナリオが現実のものとされるためには,前記の検査要件は足枷になるような気がしてなりません。今一度,検査の目的と効果について考えた上で,長い目で見た場合の最良の方策が採られることを願います。

 また,厳しい見方をすれば,日本で終息宣言を出すことができたとしても,終息宣言を出すことができなかった国の代表選手及び観客は入国できない可能性があります。この場合,どの程度の国が終息宣言を出すことができれば開催するのか,といった問題も出てくると思います。

 いずれにしろ,オリンピック開催に向けた道は我々が想像しているよりも遥かに険しそうです。

投稿者:河野邦広法律事務所

新型コロナウイルス

2020.03.27

 世間は今,新型コロナウイルスの拡大に戦々恐々としています。

 オンタイムでこれを読んだ方にとっては,これから書くことが当たり前のこととして映るかもしれません。しかし今起こっていることは何年後かには忘れ去られているかもしれません。新型コロナウイルスについては忘れなくても,この時,国で行われた政策や国会でのやりとりが,ねじ曲げられたり改ざんされるかもしれません。最近の日本の政治を見ていて,そのような懸念を抱いたため,感じたことを書いておこうと考えました。

 中国の武漢で新型コロナウイルスの感染が拡大している情報が入った当初,日本は基本的には感染防止策を採りませんでした。むしろ中国からの旅行者を「お待ちしています。」という姿勢でした。(この方針の是非を論じることはしません。ただ,事実としてそうであったことを書き留めたいと思いました。)

 日本に停泊したダイヤモンドプリンセス号内の感染者については船内にとどめる方針を採りました。

 その後,中国だけでなく欧州等でも感染が拡大していることがわかっても,日本は原則として37.5℃の体温が4日間続くことなどを条件として相談後に検査をするなど,検査数を絞り込む方針を採りました。

 また政府は令和2年3月2日から全国の小中高校に一斉休校を要請し,ほとんどの学校が休校に入りました。卒業式は卒業生徒のみで行われたり,卒業式自体が行われない学校もありました。防衛大学校の卒業式は行われました。卒業生の間隔は空けられておらず,卒業生らが大きな声を上げる様子が報道されました。

 なおも欧州,米国等の感染拡大が収束せず,株価の暴落を経て,令和2年3月24日,東京オリンピックの延期が発表されました。

 意図的か偶然かはわかりませんが,東京オリンピックの延期が発表されたとたんに東京の1日あたりの感染者数が倍以上に増加しました。

 東京都は平日の自宅勤務,休日の外出自粛を要請しました。これと時を同じくして首相夫人が桜の木の前で芸能人らと撮った写真が週刊誌に掲載されました。写真の真贋等がわからないので,この点の評価は置いておきますが,この報道について首相は国会で「レストランに行ってはいけないのか」と答弁したと報じられています。これを言ってはいけなかったのではないでしょうか。国民は外出自粛を要請されているのです。レストランに行くことも外出です。レストランに行って構わなかったのであれば,外出自粛要請とは何だったのでしょうか。今回の外出自粛要請によって店じまいをすることになった飲食店に何と説明するのでしょうか。「『自粛要請』しただけで『禁止』はしていない。外食しても良いのにしなかったのは国民の判断だ。」とでも言うのでしょうか。首相の当該答弁はあまりに無責任です。

 思えば新型コロナウイルスをめぐる政府の対応は最初から後手にまわり,かつ,ちぐはぐでした。経緯は上記のとおりなのですが,報道されている個別の政策についてもちぐはぐです。

 例えば当初は「現金給付」と言っていたのに,急に「和牛」や「旅行代金」という話が出てきてしまいました。これに続いて「魚介類」,「高速料金値下げ」といった話が出てきて,子どもが会議をしているような印象を受けました。そうかと思えば再び「収入要件ありの現金給付」という話が出てきました。仮にこの政策が実現した場合,要件検討の役を担うことになる自治体は大変でしょう。事務費も高くつきそうです。また政府は収入が減少した世帯を救済するための政策に軸足を置いているのか,景気対策,経済の下支えとして政策を打つのかがはっきりしていません。

 また外出自粛についてもちぐはぐ感が否めません。令和2年3月2日からの一斉休校がそもそも唐突でしたが,首相は「卒業式を実施してほしい」とも述べました。さきほどの「レストランに行ってはいけないのか」と同じパターンです。首相は卒業式シーズンが終わる前から実施してほしいと言っていたと主張しているようですが,そうであるとして学校にそれが伝わっていたのでしょうか。そして令和2年3月20日には休校要請を新学期から解除すると発表されました。しかしこの方針はちぐはぐになってしまいました。令和2年3月下旬において,国民は外出自粛を要請されており,東京近郊から東京都への移動についても自粛要請が出ています。そして自粛の期間は「21日程度」と報道されています。とすると,外出自粛,東京都への移動自粛は令和2年4月中旬まで続く可能性が高いといえます。新学期が始まるのは4月上旬です。これでは子どもが登校して,親は外出自粛という状態になりかねません。もちろん今後,4月上旬に外出・移動自粛要請が解かれる可能性もあります。または1学期の開始時期を4月中下旬にする可能性もありますし,休校要請解除の撤回もあり得ます。しかし現状を見ていると,上記のような矛盾した政策が罷り通ってしまうのではないかという恐怖心を抱かざるを得ません。このようなとき,最近の日本国民は何とか理屈を付けて政策の平仄を合わせる努力をしてきたように見受けられます。特にインターネットに書き込みをする方の中には,政策担当者なのではないかと思うような詳しさで平仄を合わせている方も見受けられます。しかし,現在のような緊急事態においてそのような努力は有害無益です。国民はもっと政権に要求して良いし,文句も言って良いのです。むしろ文句を言うべきです。

 前のブログでも述べたように,現在の政権与党は桜を見る会の問題と検察官の定年延長問題辺りから急激におかしくなりました。以前からおかしくなっていたかもしれませんが,この2点については節度を超えています。

 何年後かにこの内容がどのような思いで読まれるか,楽しみでもあり,恐怖でもあります。

投稿者:河野邦広法律事務所

許さない人(2)

2020.03.07

 なぜ人は人を許さなくなってしまったのでしょうか。

 この点はメディアでもよく言われていることですが,「承認欲求」である程度説明が付くと思います。「承認欲求」は「他者から認められたい」と思うことが「他者承認欲求」で,「有るべき自分に自分がなれているか」ということが「自己承認欲求」というそうです。冒頭で述べた,他人を監視して違反者を報告する行動は,これを行うことで他者に認められたいということであれば「他者承認欲求」となり,ルールを守れる自分が理想ということであれば「自己承認欲求」ということで説明が付きそうです。

 承認欲求はさらに「上位承認」「対等承認」「下位承認」の3つに分けられるそうです。「上位承認」は「自分が他人よりも優位」,「対等承認」は「自分が他人と対等」,「下位承認」は「自分が他人よりも下位」として認められたということらしいです。「下位承認」は面白いですね。他人から「下位」として認められたい,というのはまだわかりますが,「自己承認欲求」の「下位承認」があり得るとしたら,どういうことなのでしょうか。「あるべきダメな自分になれているか」とストイックに突き詰める姿は滑稽を超えて恐怖すら覚えます。

 こういった下位承認は偽悪的な行動につながるようにも感じられ,先日のコラムで書いたTwitterで悪行を働いてしまう人々の精神構造を説明できるかもしれません。

 さて,承認欲求の結果,人が人を許さなくなったとして,どうすれば人は人を許すことができるようになるのでしょうか。

 この点についても承認欲求にヒントがあるかもしれません。承認欲求が自己を肯定することであるならば「許す」ことは他者を肯定することです。肯定されたい自分を自覚できたら,他人が肯定されたいと思っていることも理解できるはずです。これが理解できたら,あとはあるがままの他人を肯定するだけで他人を許すことができます。

 しかしながら,この方法をなかなか採ることができないことは現状を見るに明らかです。その理由は置いておいて,もう一つ人が人を許せる方法があります。それは全く逆の発想で,「他人は自分と別の存在である」と考える方法です。とある記事で読んだことがあるのですが,外国人男性と結婚した女性が,夫の家事のやり方に注文をつけたところ,夫から「自分の国ではこの方法でやる」と反論されて納得した,というものがありました。このパターンは,外国人である夫には自分のやり方があり,異なっても当然である,理解できなくても当然である,ということに気づくことができ,許すことができたのでしょう。このような考え方ができれば人は人を許すことができます。

 では,この夫が日本人であった場合,夫が「実家ではこの方法でやっていた」と反論していたら,女性は納得したでしょうか。納得しないでしょう。日本に特徴的なことか否かはわかりませんが,日本人は日本全域において概ね同じ様式で生活していると考えており,他者が少しでも異なる方法を採ると強く非難します。顕著なのが箸の持ち方や食べる順番です。箸を使って食べる文化は世界的に見て多数でないにもかかわらず,唯一つの方法のみを正しい方法として確立し,少しでも異なる方法を採ると「育ちが悪い」「日本人じゃない」と非難します。前記の「許さない人」たちの非難は日本人に向いていることがほとんどなのではないでしょうか。「日本人ならこんなことはしない,してはいけない」という,あるかないかもわからない共通認識「のようなもの」が人々の頭の中にあって,それが承認欲求となって露顕しているのではないでしょうか。

 日本人でも,そうでなくても自分は自分であり,他人は他人です。そして自分は他人を監視しなくても,ルールが多少守れなくても充分すばらしい存在です。自分に縛られ,他人に監視されて疲れ果てた先に幸せは見えるでしょうか。他人にほどよく無関心になると人生は少し楽になります。

 最後に,箸の持ち方はなぜ1種類しか認められていないのでしょう。ひもの結び方のように色々な方法が認められればよいと思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

許さない人(1)

2020.03.06

 最近,「許さない人」が増えていませんか。

 例えば昨年のニュースで,未成年のプロ野球選手が横断歩道以外の場所を横断したとという内容が報じられていました。もちろん厳密な意味では横断しない方がいいのですが,全国的に報じるようなことでしょうか。一般人はお咎めなしでプロ野球選手だと悪人のように報道されるとなると,もはやプロ野球選手差別とすら思ってしまいます。これくらいは許しても良いのではないでしょうか。私のこのような発言も「法を遵守すべき弁護士が道交法違反を慫慂した」と叩かれてしまうのかも知れません。なお弁護士は法を犯してしまった人を弁護する仕事も多いことは忘れないでいただきたいと思います。弁護士は他人の許し(赦し)を乞う仕事でもあるのです。

 他方,インターネットでもちょっとしたルール違反などを報告し,時には撮影までして拡散し,よってたかって違反者を叩いているのを見かけます。そしてこれがエスカレートして,ルール違反だけでなくモラル違反・マナー違反・エチケット違反へと対象が拡大します。酷いときには何も違反していないのに,「容姿がいまいち」とか,「服と靴の組み合わせが許せない」,酷いときには「お弁当がまずそう」,などと八つ当たりのような批判をしているようなものも見かけます。

 最近では高い社会的地位にあった人が刑事手続において逮捕・勾留されなかったりすると,その人を「上級国民」と呼んで特別扱いされているように書き立てたりもしています。確かに,勾留の判断において高い社会的地位にある人であれば今ある地位を捨てて逃げたりしないであろうということで,逃亡のおそれが低いと評価され,勾留の必要が無い方向で判断されることはあり得ます。しかし社会的地位を理由に特別扱いを受けているとまでは断定できないのではないでしょうか。

 このように,あるカテゴリーにある者を「上級国民」と区分けして特殊に評価する行為は,自分を「上級国民」ではないと考える方々が「上級国民」を妬んだり,自己の不満を「上級国民」にぶつけて鬱憤を晴らすという構図に見えます。そのような構図・行為の裏には,「上級国民」が自分とは異なって苦労や悩みの少ない人生を送っているに決まっている,という漠然とした前提が隠れているように思われます。しかし昨年,「上級国民」と評価されるであろう方が苦悩の末に自分の子を殺害した事件が発生しました。このような事件を見ると「上級国民」と評価されて攻撃対象とされてしまう方も,一般の方と同様かそれ以上の悩みを抱えて生きていたことがわかります。その事実を認識したとき,「上級国民」のレッテルを貼っていた方々の心はどのように動くのでしょうか。自分が間違った前提の上に立って他人を批判したり主張していた,と反省することが自然で,かつ多くの方はそのように思うのではないでしょうか。それでも「上級国民,ざまあみろ」と思う方は倫理や善悪の問題以前に理屈や認識の構造を組み立て直す必要があるかもしれません。

 なお私は,他人を許せないタイプの発言者が,この「ざまあみろ」タイプと親和性があるのではないかと思っています。

(つづく)

投稿者:河野邦広法律事務所

物事の順序(3)

2020.02.28

 つい先ほどアップしたブログに書いた「要請」の件について,やはり法的拘束力等の問題が議論されているようです。

 結論としては「要請」に法的拘束力はなく,各自治体や学校(校長)の判断に委ねられるとのことです。

 予想通りと言えば予想通りであり,立法がない以上,この結論に誤りはないように思われます。

 しかしそうだとすると,この「要請」の性質は何なのかという問題は残ります。

 法的根拠がないことを内閣がなかば認めたようなものなので,この「要請」は法的に宙に浮いてしまいました。強いていうならば要望を伝える事実としての「リクエスト」と表現できそうですが,リクエストには応答(レスポンス)が伴うので,応答義務が想定されていない本件「要請」とは異なるように思われます。

 本件「要請」は名宛人が多数かつ特定も曖昧(法的根拠がないため)なので,事実としての「アナウンス」に類似し,究極的には「モノローグ(独り言)」に近づいていきます。

 このように考えると,一連の「要請」の件は,自治体や学校(校長)が内閣総理大臣の独り言に右往左往しているという構図で説明できるのではないでしょうか。

 このような構図は,法的根拠に基づかず,判断権者や責任の所在が曖昧という点で,現政権において語られてきた「忖度」に極めて似た構図であり,緊急時に現政権の本質が見えたということもいえそうです。

 また現政権の行動様式として,法のプロセスを無視・歪曲するというものもあります。行政を法律に基づかなければ活動できないようにしたのが現代の制度なのですが,現政権は,実現しようと思ったら法律に基づかないで,または都合の悪い法律の解釈をねじ曲げて実行してきたように見受けられます。最近では事実すらねじ曲げるようになっています。こういった行動は三権分立や議会制民主主義,憲法の理念等について理解されていない一部の方々にとっては,ある種の万能感を生み,痛快に写っていたのではないでしょうか。

 しかしそのような行動様式の限界が明確に見えてきました。しかもその限界が誰の目にも明らかになった今,国家は国民の生命を左右する局面に立たされてしまいました。皮肉のようですが,ここ数年間,誤った理解に基づいて運営された国政を冷静に振り返る良い機会と解釈することで少しは前向きになれるのではないでしょうか。

投稿者:河野邦広法律事務所

物事の順序(2)

2020.02.28

 前回のブログで物事の順序について書きましたが,書いている最中に内閣(内閣総理大臣?)が,コロナウイルスの感染防止のため,全国の小中学校,高校に臨時休校を要請したという報道がありました。この件について「苦渋の決断」などと勇ましく報道している媒体もありますが,その前に少し立ち止まって考えてほしいことがあります。

 そもそも今回の要請には法的根拠があるのでしょうか。あるとしたら何法でしょうか。ないとしたらこの要請の法的性質をどのように説明したらよいのでしょうか。さらに要請の法的性質が不明であるとしたら,この要請に法的拘束力はないことになりますから,結局,判断を全国の自治体、学校(または校長)に丸投げしたことになります。

 今は「政府の判断で」と言っていますが,責任が発生したら「自治体や各学校(校長)の自主的判断」と言い出しそうです。また臨時休校にしなければしないで何か言われそうです。校長も子どもも,保護者も困惑していることでしょう。

 このような「要請」が急に出てくること自体,物事の順序が誤っていたということだと思います。休校等の措置について何らかの拘束力を持たせる必要があったのであれば,立法が必要でした。法の内容や迅速性等の問題から,法案は内閣が提出することになるのでしょう。しかし今回は何らの立法措置が採られないまま,内閣(内閣総理大臣)の独り言のような「要請」が急に出てきてしまいました。この流れが立法を待てないほどに緊急事態であるということであれば,休校で済む状態ではなく,社会全体を外出禁止にするくらいの状態なのではないかと勘繰ってしまいます。実際,あれだけ働く電通の従業員5000人が出社していないのです。そのように考えると私たちは,とんでもなく危険な空間で生活させられているように思えます。このような事態になってしまったのも,物事の順序を誤ったからです。初めから必要な検査を実施して正確な統計数値を整えておくべきでした。そして統計数値にしたがって地域ごとに必要な措置を採ることができる立法をすべきでした。政府の初動に疑問を呈する識者は多く存在したので,結果論ではありません。

 今回の「要請」についてもう一つ気をつけなければならないのは,今回のような事態に対応する必要性を理由として憲法に緊急事態条項のような条文を設けるべきだと主張する人が出ていることです。結論から言って,今回のような事態であっても緊急事態条項は必要ありません。前記のとおり,本件は初動から適切に対処していれば現在のような事態にはならなかったはずでした。緊急事態条項は初動の不備を補うような制度ではありません。国民の生命の危機をも利用して内閣の権限を不当に強化しようとする方が存在することに現在の日本の異常性を感じざるを得ません。

投稿者:河野邦広法律事務所

物事の順序(1)

2020.02.27

「物事には順序がある」

 

 よく耳にする言葉です。親に言われた気もしますし,学校で言われた気もします。同じようなことを会社で言われた気もします。私の場合,弁護士になってからも言われたかもしれません。

 このように何回も言われる言葉ですが,何回も言われるのには理由があります。言われる私たちが物事の順序を守れていないのです。守れていないから何度も言われるわけです。

 人は物事に順序があることをわかっていながら順序立てて処理できないのです。

 またわかっていてもわざと物事の順序を守らないこともあります。

 最近の報道を見ていて,社会が物事の順序を守らない事案が散見されます。

 

1つ目はコロナウィルスの検査に関する報道です。

 報道によりますと,ダイヤモンド・プリンセス号の船内で作業に当たった職員についてウイルスの検査を行わなかったとのことです。驚くのはその理由で,「陽性者が多く出た場合に業務に影響するから」と報道されています。陽性者がいた場合,その職員を隔離せず,情報共有もしなければ他の職員が防御できず,感染が拡大します。感染が拡大したら,業務への影響は甚大になるでしょう。そんなことは簡単に想像できそうですが,それでも感染が拡大しない方向に賭けたということなのでしょうか。本末転倒も甚だしいといえます。

 

2つ目は検察官の定年延長問題です。

 そもそも検察官の定年年齢は,検察庁法22条で定められており,検事総長を除く検察官は63歳,検事総長は65歳です。内閣は63歳と定められている検察官の定年年齢について,国家公務員法81条の3を適用して延長するとしました。この点について解釈変更の可否・是非の問題のように論じられていますが,そもそも解釈レベルの問題以前に適用はできないように思われます。そのことは置いておくとして,内閣はなぜこの期に及んでこのような方法を採ったのでしょうか。一般論として検察官に定年延長が必要な事態があると認識していたのであれば法改正の方法を採るべきであり,解釈変更とする今回の方法は場当たり的に感じます。百歩譲って,カルロス・ゴーン氏の件が影響しているとして,解釈変更の方法を採るとしても,無理筋であると思います。そもそも内閣の主張によると,解釈変更前の検事総長候補の方では「公務の運営に著しい支障が生ずる」ということでなければなりません。そんな事態があり得るのでしょうか。この点についても説明が不足していると思われます。いずれにしろ本件の混乱は法改正によるべき順序を誤ったことにより生じたといえます。法改正が間に合わないなら順番通りの人事にすれば良いだけの話なのです。

 

3つ目は野党に対する批判についてです。

 主にインターネットにおいて,野党が「桜を見る会」や前記「検察官定年延長問題」について質問するからコロナウイルスの議論ができない,といった批判が見受けられます。しかしこの批判も順番を誤っていると言わざるを得ません。

 そもそも野党は少数派の立場から政権与党の政策を批判的に検討するのが責務です。政権与党は野党からの追及を受けるような隙を見せないように運営しなければなりません。「桜を見る会」についていえば資料を出して検討させて,問題がなければ年内に話はついていたはずです。また検察官定年延長問題については内閣発信の問題であり明らかに不当な方法を採っているので,与党を含む国会はこれを見過ごしてはなりません。そのように考えてみると,国民生活にほとんど影響がなく,規定通りで十分な検察官人事を敢えて捻じ曲げて論点を発生させ,コロナウイルスについての審議の時間を浪費させた内閣にこそ問題があるといえそうです。これも優先順位という意味で順序を間違えたということになると思います。

 このように現在の政権与党はこれまでに考えられなかったようなレベルで物事の順序を誤っているように見受けられます。コロナウイルスの問題についてもオリンピック開催が危ぶまれるというレベルで論じる方が見受けられますが,これも順序が誤っています。そのような問題ではなく,国民の生命がかかった問題として論じる必要があるでしょう。

 物事の順序の大切さが身に沁みる今日この頃です。

投稿者:河野邦広法律事務所

「である」・「べきである」を超えて

2019.12.25

 今日はクリスマスである。

 クリスマスの日には子どもにプレゼントをあげるべきである。

 「である」と「べきである」の区別は私たち法律家の論述にとって基本といってもよいくらい重要です。一般的な論述においても重要性は変わらないでしょう。「である」と「べきである」の意義については哲学で「ザイン」と「ゾルレン」として学んだ方も多いのではないでしょうか。私も高校の倫理の授業で「ザイン」と「ゾルレン」が登場しましたが,その頃はよく理解できませんでした。

 法律家の論述の多くは証拠に基づいて「〇〇である」と事実を主張します。この事実の積み重ねが要件事実を推認させて法律効果が発生する,という仕組みです。ですから「べきである」が登場することの方が少ないといえます。

 この「べきである」には押しつけがましいイメージがあるかも知れません。よくある例は「女性は家庭を守るべきである。」や「男は家族を養うべきである。」といった性による役割分担の根拠に使われるものです。現在では,こういった押しつけがましい「べきである」論が批判され,性別を問わず,その人を尊重することが浸透してきたように思われます。そういった意味では「その人」の尊重,つまり「である」の尊重が進んできていると言えるかも知れません。

 もっとも,性別における「である」「べきである」論が変化しつつある現在において,もう一つの視点が浮かび上がってきています。それはLGBTの視点です。この点についても「その人」を尊重すればよいようにも思われます。しかし,トランスジェンダーについては問題が簡単ではありません。例えばトランスジェンダーといわれる「その人」は,客観的には「男性である」けれども,主観的には「女性である」ということになります(逆もあります。)。この場合の「その人」を尊重する場合,「女性である」ことを前提に尊重する必要があるでしょう。しかし客観的に「その人」は男性であり,いわゆる生物学的には「男性である」ということになります。ここに問題の難しさがあり,先ほどの「である」の尊重を客観的に適用しただけでは解決しないのです。

 ではどうしたらよいか。

 抽象的には「その人」の「思い」または「想い」を尊重するということではないでしょうか。「その人」が男性として扱われたいか,女性として扱われたいか,または場面によっては性別という概念を持ち出さないでほしいか,ということを尊重するということです。

 憲法は「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」(憲法19条)と規定しています。そして,この思想及び良心の自由は人権どうしの調整原理とされる公共の福祉による制約もされないとされています。つまり思想と良心については絶対的に自由であるということです。前記トランスジェンダーが厳密な意味で「思想」に当たるかはひとまず置くとして,「その人」の「思い」や「想い」を尊重することが憲法の理念にもかなうということです。

 これを「その人」の問題に引き直せば,「ある人」は,「その人」の「思い」や「想い」を尊重する「べきである」,ということになります。ここで再び「べきである」が登場しました。「べきである」から脱却し,「である」を超えた結果,再び「べきである」が登場しました。この「べきである」は押しつけがましいでしょうか。そうではないはずです。

 「べきである」が登場してしまった原因は,憲法が求める理念に現実が合致していない結果,その修正・回復が必要となったためなのです。

 憲法が求める理念が実現されたとき,「べきである」も「である」も登場しなくなるでしょう。

 追伸:上記文章は,例えば男性の身体のままで女性用の公衆浴場や更衣室等を利用すること(またはその逆)を制限してはならないといった趣旨は含んでおりません。

投稿者:河野邦広法律事務所

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