2021.12.29
「最強の職業」は何でしょう。
「最強」が身分保障という意味であれば公務員,中でも裁判官でしょうか。いや,外交官かもしれません。外交官には外交特権があり,接受国で逮捕されない等,非常に強力に保護されます。
「最強」が権力を持つということであれば国会議員,内閣総理大臣でしょうか。
「最強」が財力という意味だと時代によって異なりますが,現代では起業して社長になることでしょうか。
私にとっての「最強の職業」はかつて新聞記者でした。なりたいと思ったことはありませんが(体力がもちません),最強の職業と呼ぶに相応しいと思っていました。理由は,1人の新聞記者が書いた記事によって世論を動かし,時には政権を倒すことまでできるからです。もちろん新聞記事はチームを組んで書いているとは思いますが,取材するのは結局1人の新聞記者です。
1人の力で世界を変えられる新聞記者は最強の職業に相応しかったと思います。
読んでいて気になる方もいらっしゃるでしょうが,新聞記者が最強の職業「であった」のです。現在の私の認識では,新聞記者は最強の職業ではありません。
理由としては,情報源が多様化し,新聞より早く情報を発するメディアが増加し,新聞の購読者が減少したこともあります。しかし最も大きな理由は新聞記者が権力監視という役割を失っているように思えるからです。各紙の色というものがあることはわかりますが,一部の新聞は政権と同化しているのではないかと思うほど批判能力を失っています。もちろん,政権批判だけをすべきであるということではありませんが,政策を客観的視点で分析すれば全く批判がないということも考えにくく,何らかの政策批評や法案の(客観的な)危険性を指摘することはできるはずです。新聞はその能力を失ってしまったように感じられます。前述のように新聞記者は1人の力で権力をしとめる,トランプの大富豪でいえば「JOKER」のような存在です。JOKERとは道化師のことであり,道化師は市民を楽しませる一方で,王を批判できる存在であったともいわれます。王を批判できなくなった道化師は市民を楽しませるだけの存在になります。これは現在のワイドショーのコメンテーターにお笑い芸人の方々が増えている現象と重なります。実に不思議です。
かくして私にとっての最強の職業は空位になりました。
最強の職業をまた探すとして,私の職業である弁護士は最強の職業になることができるでしょうか。
1人の力で法令の違憲判決を獲得し,無効とすることができるという意味では弁護士も最強の職業の可能性を秘めているのかもしれません。例えば近年,1票の格差訴訟が各地で提起され,参議院選挙が違憲状態であったとの判決が出ています。しかし「違憲状態」であっても選挙は有効であり,結局解決は国会に委ねられてしまいました。これでは残念ながら弁護士の力で世界を変えたとはいえません。むしろ弁護士には無力感,徒労感が漂うくらいです。
弁護士による裁判を通じた働きかけは,裁判官に最終判断権があるというところに限界があります。
私は弁護士が最強の職業でなくて良いと思っています。弁護士の仕事は究極的に依頼者の権利を守ることであり,職業としてのパワーに興味はありません。
やはり,再び新聞記者(ジャーナリスト)が政権批判能力を取り戻して「JOKER」として市民の切り札(trump)になってほしいと思う今日この頃です。
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2021.12.11
2021年の流行語トップ10に「親ガチャ」という言葉がノミネートされました。
明確な定義はないものの,大まかにいうと「どのような親の元に生まれるかによってある程度,人生が決まってしまうことを前提に,子が親を選択できないことを,主にカプセルトイを対象とする抽選式玩具購入方式に例えたもの」ということでしょうか。
親ガチャの定義は概ね共有されているとして,親ガチャという言葉で包摂しようとする対象があまり厳密に議論されていないように思われます。
世の中には王族のような方々がおり,そのような人の子として生まれた場合は,ある意味,苦労せずにある程度の人生を全うできるという意味でガチャの対象になっているようにも思われます。しかし昨今話題になっている英国王室の問題や日本における内親王の結婚問題などを見ると,人間の本来的な自由を過度に制限されているように思われ,特殊な例として議論からは外すべきように思われます。対象にしたとしても王族だから「当たり」ということにはならなそうです。
反対に親から虐待を受け,亡くなってしまうような場合もあります。このような場合も親が一般的に想定される正常な行動から大きく逸脱した行動を採っているため,議論の対象から外すべきように思われます。むしろ子供の虐待について「親ガチャ」などという軽い言葉を用いて議論すべきではないでしょう。
そうすると親ガチャの対象となる範囲は,王族のような特殊な社会や親の子に対する犯罪が起こるような場合を除いたものになると思われます。
次に,何をもって「当たり」とし,何をもって「ハズレ」とすべきかという議論になろうかと思います。この点が子の主観のみに左右されるのでは基準として機能しないため,客観的な基準が必要となります。一般的に親が持つ属性で社会的に着目されやすいのは,財力,学歴,容姿などでしょう。体型を含む容姿は遺伝によってある程度影響するでしょうし,財力によってある程度は子の目標実現に資することもあるでしょう。学歴は必ずしも能力を反映しないと考えますが,一般的な文脈との関係では財力を媒介として結果に反映されることが多いように思われます。
こういった要素を数値化して,全体のポイントが高いほど,その親は「当たり」となり,低いほど「ハズレ」になるのでしょうか。親ガチャの議論を見ていると,そうでもないように思われます。なぜ基準が明確にならないのでしょうか。
ここで親ガチャという言葉を使う場合を見てみると,「自分は当たりだ」と積極的に言う人は皆無で,「自分はハズレだ」という人しかいないように思われます。そして自分がいかにハズレたかを他者と比べているようにも思われます。もちろん,「あなたは親ガチャ当たりですか?」と聞かれれば「当たりだと思います。」と答える人も多いでしょう。しかし,そのような方々は親ガチャ議論のコミュニティーには入ってこないわけです。
このような状況から考えると,「親ガチャ」という言葉は,自分の人生が思い通りにならなかった方々の未練であったり,怨嗟を示す言葉であり,ごく主観的な感想に近いといえるのではないでしょうか。
だからといって私は「言ったところで状況は改善しない,意味がない」といった自己責任論的な立場を採りません。むしろ若者がこのような言葉を発してしまうこと,そしてその言葉が一定の説得力を持って流通してしまうことに社会や国家が危機感を持たなければならないと思います。若者が希望を持てない社会に未来はない,ということが少し前までは選挙の度に声高に叫ばれていましたが,ついにそのような言葉すら聞かなくなってしまいました。政治が未来を見据えたものであるならば,若者に配慮した政策がもっと語られても良いのではないでしょうか。
反対に「親ガチャ」という言葉を安易に使ってしまう方に考えてほしいこともあります。
そもそも自分が生まれた時に自分を位置づける要素は親だけでしょうか。兄弟姉妹(弟妹は生まれた後の要素ですが),親族といった要素もあります。また自分が選択できる要素も含まれるとはいえ,友人などもある程度決まってきます。こういった関係や出会いの中に1人でも関係があって良かったと思える人がいたら,それは「当たり」と考えるべきなのではないでしょうか。現在,あなたから見てうまくいっているように見える方も,親との関係だけではなく,色々な方に支えられたり,助けられているはずです。それと同様にあなたを支えてくれる人がいるはずです,助けてくれた人がいるはずです。そういった人が1人でも浮かぶのであれば,「当たり」だと思ってほしいです。
また,あなたからみて「成功している」と見られる人も,その人から見れば成功していなかったり,努力や才能に見合った結果が得られていない場合が多々あります。ニュートンは物理学においては多大な成果を上げましたが,錬金術で失敗していたとも聞きます。プロ野球選手で何千本もヒットを打った超一流の方でも,引退する時に,生まれ変わって野球選手になれるなら投手として1勝したい,と言っていました。どんな人でも,思い通りにならないことを経験して今に至っていると考えれば,自分の人生もそんなに悪くないと思えるのではないでしょうか。
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2021.07.30
令和3年7月29日,東京都の1日あたりのコロナウィルス感染者数は3865人と報じられました。日本全国の感染者数は1万人を突破しました。同月30日の東京都の感染者数は3300人と少し減少しましたが,前の週の金曜日と比較すると約2.5倍になります。前の週の金曜日が連休中で検査数が少ないことを差し引いても急激な増加と評価できます。
このような急激な増加について政府や一部のコメンテーター等は,感染者の急増とオリンピックとは関係ないと言い切っています(このような論者を「因果関係否定論者」と呼ぶことにします。)。しかしながら言い切ることは誤りであると思われます。そもそもオリンピック開会前から東京都には緊急事態宣言が出されており,現行法下において最も強い規制下に置かれていると言えます。その上でオリンピック開会前から今週にかけて感染を急増させるような出来事はありません。そのような状況から考えるとオリンピックの開幕が感染の増加に全く影響していないと主張することは難しいでしょう。そもそもオリンピック開会直前にブルーインパルスが東京上空を飛んでいましたが,それを見るために多くの人々が道路上に集まっているのを報道で見た方は多いのではないでしょうか。私も報道で映像を見て,即座に感染者が増加することを懸念しました。
またオリンピックを開催したことで,政府が国民に対して誤ったメッセージを送ってしまったことも見過ごせないでしょう。つまり政府がオリンピックの開催を決定したことが,国民に感染状況を軽く評価させる根拠として認識されてしまったということです。この点について因果関係否定論者は,オリンピックの開催と国民の意識は関係ないとか,酷い場合にはそのように受け止める国民が馬鹿だ,などと主張します。しかし考えていただきたいのは,緊急事態宣言との関係です。日本が感染対策の主力として繰り返している緊急事態宣言には強制力がありません。つまり緊急事態宣言は政府が危機的状況を国民に対してアナウンスすることで国民の認識を通じて行動変容等を促す政策です。このようなアナウンスに国民の行動変容等を促す効果があると考えるのであれば,同じく「オリンピックを安全安心に開催します。」とアナウンスすることで国民が感染状況について軽く評価する効果を生じると考えなければ矛盾しています。因果関係否定論者はこの論点から逃げているように感じられます。一部でオリンピックと感染増加は切り離して考えなければならない,と述べているコメントを拝見しましたが,論点から逃げていることが明らかです。この論点を別の角度から表現すれば,よく見かける「アクセルとブレーキを同時に踏む」ということになるでしょう。アクセルがオリンピック開催で,ブレーキが緊急事態宣言になります。因果関係否定論者は全国民に対して,アクセルとブレーキを同時に踏んでいる政府の政策を「賢く解釈して,うまく立ち回れ」という無理難題を押しつけているように見えます。特にこのような無理難題は若者にとっては耐えがたいものであることは想像に難くありません。私のような年を取った者にとっての1年と,若者,特に学生の1年の価値は,比べものになりません。若者からすれば,感染しても大したリスクがないにもかかわらず貴重な日々を捨てろと言われることは不合理でしかありません。ましてオリンピックを大々的に開催しておいて,国民の行事は禁止です,と言われては緊急事態宣言の感銘力など無に帰すでしょう。
昨今の感染者急増はもともと感銘力を失った緊急事態宣言に加えてオリンピックを開催するという矛盾した決断がされたことにより国民の認識を通じた行動変容を起こせず,むしろリバウンドを起こしたことにより生じたものであると考えるのが合理的です。
それにもかかわらずメディアはオリンピックの礼賛と,開催を反対していた人に対するバッシングにあふれています。特に後者は幼稚すぎる行動であり,日本もここまで来たか,といった衝撃を受けました。私はマスコミがオリンピック中止を主張していたとしても,オリンピックの中継をすべきであると思いますし,アスリートの活躍を報道すべきであると考えます。またオリンピック中止を主張していた方々がオリンピックを見ることも全く問題がないと考えます。この点についてはインターネットの記事などで識者が論説などを載せているので,そちらをご覧いただいた方が良いかと思います。
コロナウィルス感染者急増の報道に接しつつ,オリンピックの報道で日本人選手が活躍する報道を見て,インターネットにおいて敗退した日本人選手やオリンピック中止派への誹謗中傷を読んでいると,日本が太平洋戦争において敗戦する直前もこのような感じだったのだろう,とふと思ってしまいました。先人の努力により日本は長らく戦争を経験することがありませんでしたが,戦争とは異なる形で平和を失い,敗北を経験するかもしれません。
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2021.07.23
オリンピックの開会式の直前にディレクター等が次々に辞任,解任となる事件があったことは昨日の記事に書きました。この記事を書いている現在,まだ開会式前なのですが,報道によると小林氏が携わった開会式の演出はそのまま行われるようです。ネット上の一部記事では,小林氏が携わった開会式の演出を実行したら日本の国際的地位も危うくなるというものもありました。そのような指摘もある中で強行するのですから,組織委員,政府は責任を取るつもりで決断したのだろうと思います。
個人的には,前記の経緯もある上,開会式のパフォーマンス自体,多くの人が密集するので緊急事態宣言との整合性の視点からも取りやめた方がいいのではないかと思っています。
他方で日本国民としては,今回の組織委員会や政府の責任を追及することは当然として,別途,このようなことが起こってしまった原因を分析して世界標準の人権意識から後れを取っている現状を改善する方法を考える必要があります。
今回,特に小山田氏と小林氏については20年前の言動について問題視されたことが共通しています。この点について「昔(のサブカルチャー界隈)は,今回問題視されるような言動を受け入れていた。」との意見もありますが,当事者らからすると冗談じゃない,といいたいところでしょう。ただその反面,今回問題視されるような言動が20年以上,ネットの一部で騒がれたことを超えて問題視されなかったことは日本の根本的な失敗であったのではないかと思います。特に小山田氏の言動については騒いでいる人がいるにもかかわらず真剣に議論されることがありませんでした。この点については関連団体の方が共同教育のあり方と合わせて問題提起をされているのを見かけたので,単なる個人攻撃ではない,問題提起・解決の参考になるかと思います。
これに対して小林氏の件に関しては,ビデオとして編集せずに販売されたことを考えると,リハーサル,実演,ビデオ編集,販売のいずれの段階においても問題視されなかったことがうかがわれます。識者によれば日本の国際的地位を脅かすことになりかねない問題について誰ひとりとして問題視しなかった事実に我々は恐怖を感じなければならないのではないでしょうか。日本の人権意識はそれほどに低いレベルでとどまっているということです。
今回の問題も,オリンピックという国際的行事がなかったらスルーされていたと思います。かように日本と世界の人権意識に差が生まれたのはなぜでしょうか。1つの原因として考えられるのは戦争観の違いであると思います。第二次世界大戦において日本(大日本帝国)はドイツ,イタリアと同盟関係にありました。そのため国際的には日本はナチスドイツと同盟関係にあった国家,というイメージをもたれているはずです。少なくとも学生の歴史の授業ではそのように教えるはずです。これに対して日本では第二次世界大戦についてあまり深く掘り下げて教育していないように思われます。そういった教育の差から生じる国家イメージのズレが日本国民の国際的な人権観とのギャップを生む可能性は否定できないのではないでしょうか。日本の教育はこの点を改善しなければならないでしょう。
そして日本としては今一度,第二次世界大戦における自国の立場,行動と向き合う必要があると思います。これは決して欧米との関係だけではなく,アジアの国々に対する諸政策,行動,また当時の日本国民に対する扱いについても向き合わなければなりません。敗戦後,国家が存続していることを当たり前のように考えてしまっている現代の我々には,戦争当事者でなくとも戒めとしての反省が必要であると思います。
もうすぐ原爆の日と終戦記念日になります。こういった事件があったことを機会として平和について,戦争について考えるべきだと痛感しました。
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2021.07.22
少し前の記事に,オリンピック開催によるコロナウイルスの感染拡大のおそれについて書きました。現状,東京都には緊急事態宣言が出されているにもかかわらず,感染者数が2000人に迫る勢いで増加しています。ここまでは前の記事で懸念していたことが現実化したといったところです。
しかしながら近時の報道では感染者数よりも開会式の人事が熱い話題になっています。
2021年7月15日に開会式の演出等を担当するクリエイターチームが発表されたのですが,その中の作曲担当者である小山田圭吾氏が,過去に雑誌の取材で自己が障害を持つクラスメートに虐待のようなことをしたことを自慢気に語っていたことが問題視されました。一度は組織委員会が「許してもらえる」と考えて続投を発表しましたが,世論の反発が強く,小山田氏が辞任することになりました。雑誌に掲載された同氏の行動は常軌を逸しており,被害者に対する謝罪等も長年なかったようなので,今回問題視されて辞任となった流れは当然といえば当然かもしれません。ただ不思議だったのは,同氏のそのような話はインターネットを検索すればヒットしてしまうくらいには知られた話であり,任命の際に少し調べて本人に確認すれば,少なくともこのようなことにはならなかったのではないかと思われる点です。そんなことも調べないで任命したのか,または知っていながら問題が無いと考えたのか,組織委員会が「許してもらえる」と考えたと発言していることから,後者の可能性もありそうです。いずれにしろ「何をやっているんだ。」と言われても仕方がない杜撰さであると思われます。
また組織委員会は同氏の担当部分を開会式では使用しないと表明していますが,担当部分の尺は4分とのことであり,他の演出と整合させながら数日間で新たなものができるのか,甚だ疑問です。
話はこれで終わらず,今度はディレクターを務める小林賢太郎氏が過去にホロコーストを揶揄するかのような台詞を入れていたということで問題になりました。こちらの方は問題になった翌日くらいに組織委員会が小林氏を解任しました。小山田氏のときには留任したにもかかわらず,小林氏については即座に解任となりました。この件については問題とされている台詞がコントの一部であることや,テレビ番組などではなくファンが見に来るようなライブにおいて演じられたようなので,組織委員会が見落としてしまうことはあり得たかもしれません。実際,私はこのことについて知りませんでした。ただ疑問が残るのは,組織委員会が当該台詞について本質的な問題点を説明できる程度に理解した上で解任したのか,という点です。小山田氏の際には「許される」と考え,小林氏については「許されない」と考えたのはなぜでしょう。
小林氏については開会式の演出全体に関わっているため,小林氏が関与しているイメージを払拭するためには開会式の演出自体を取りやめるしかありません。
開会式は明日です。
開会式はどうなるのでしょうか。
そして開会式を見た世界の人々はどのような反応を見せるのでしょうか。
今回の一連の辞任,解任劇で明らかになったことは,森喜朗氏に始まり,佐々木宏氏,小山田氏,小林氏のような国家レベルの仕事を任される層の方々が世界標準の人権意識を持ち合わせていなかったということではないでしょうか。日本国内では権威で押し通せても海外では通用しないということだと思います。今回は国内からの問題提起で動き出しましたが,オリンピックが関係しなかったらスルーされていたのかもしれません。そういった意味では,国内において問題視すべき差別等をスルーせず,人権意識を培っていく必要があるのではないでしょうか。
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2021.06.07
織り込み済み
意味:計画や予算などに,ある事柄や条件などを検討のうえすでに取り入れてあること。
報道によると,ある経済関係の方がテレビ番組において,分科会の座長がオリンピックを開催できる状態ではないと発言したことについて越権行為であると批判し,オリンピックを開催すべきであるという発言をした上で,開催すべきでないという世論が誤っている,という発言をしたとのことです。
この報道を目にして気になったことがあります。
まずは分科会がオリンピックの開催について発言することが越権行為なのか,ということです。そもそも分科会はコロナウィルスの感染を抑制し,終息させるために専門的な知見を集約して政府に対して意見を述べる機関(集団)であり,政府は分科会の意見に基づく各種情報を織り込んで政策を立案します。そしてコロナウィルスの感染状況がオリンピックを開催するか否か,開催する場合にその方法をどうするかに影響することも明らかであり,政府はそのような立場に立って,常に分科会とともに政策発表をしてきました。したがって分科会がオリンピックの開催または開催する場合の方法について意見を述べることは権限の範囲内であると思われます。よって,分科会の座長の発言には問題がないと考えられます。むしろ今回,政府が急に分科会と別の専門家を持ち出したことの方に問題があるのではないかと思います。その専門家とは誰で,どのような手続で任命等されて,いつから政府に意見を述べていたのでしょうか。
次にオリンピックを開催するか否かの問題です。報道ベースでは,前述の発言者がオリンピックを開催すべきであると考える理由は,日本が世界に対してオリンピックを開催すると言った以上,日本国内の事情で開催しないわけにはいかない,ということらしいです。この発言はオリンピックを開催しない場合の理由を「日本国内の事情」に限っているため,国外の事情については織り込んでいないということになりますが,正しいのでしょうか。現時点においてワクチン接種によって感染の拡大が抑制傾向にある国は増加しているように見えるものの,ワクチンを確保できているのは開発した国や経済的に裕福な国に限られているようです。オリンピックの参加国は200か国くらいありますので,それらの国の少なくとも参加選手,同行スタッフの全員がワクチン接種を受けるなどして感染のおそれが極めて低い状態になっている必要があります。そもそもこの問題をクリアできるかが疑問です。またオリンピックの参加選手数は1万1000人以上が予定されており,IOC関係者が3000人,NOC関係者が1万4800人,その他スタッフ含めると全体で5万9000人の流入があるとされています。これらの人の行動を完全に把握して制限し,感染を防止することは至難の業でしょう。感染の防止に失敗した場合,日本国内で感染が広がることはもとより,感染者が母国に帰って感染源となるおそれもあるわけです。このようにオリンピックを開催することの危険因子やリスクは日本国内の事情に限らず,世界全体に渡るのです。したがってオリンピックを開催しない場合の理由を日本国内の事情に限る前記発言は前提を誤っていると言わざるを得ません。
このような報道を前提とした上で疑問が湧くのは,政府(や都)がどの程度の危険因子を織り込んでオリンピックを開催しようとしているのか,ということです。
前記の国内での感染拡大については大前提の問題点なので政府も当然織り込み済みであるとは思いますが,感染が拡大しても後で理由を付けてオリンピック開催との因果関係を否定するのが目に見えています。
これに対して帰国した選手,スタッフやIOC,NOC関係者が感染源となって他国で感染が拡大することについては,しっかりと織り込んでいないのではないかという疑いがあります。そもそも政府は安心・安全を前提とした開催を宣言していますので,感染が拡大してしまった場合を想定した議論をしにくい立場にあることは理解できます。しかし前記のように開催国の責任という点を強調するのであれば,日本が起点となって感染拡大を引き起こすことはあってはならないでしょう。万が一,オリンピックが原因となって変異ウィルスが発生し,海外で感染が拡大した場合,「日本株」「東京株」「東京オリンピック株」などとレッテルを貼られる可能性もあるわけです。こういった危険はあまり考慮されていないように思われます。日本国内であれば権力への忖度が期待できますが,海外には期待できません。好き放題叩かれる可能性もあります。その時,政府はどのような対応をするのでしょうか。「東京オリンピック株など存在しない。反日勢力によるデマだ。」とか,「日本で変異したことの証明がない。」とか,日本国内では押し通せた論法も海外のメディアに対しては通じないと思います。このようなことが起こった場合にはオリンピックを中止した場合以上の不名誉になってしまいます。
このようなことが起こらないことがベストであり,起こってしまってからでは遅いのですが,起こってしまった場合の対応についても考えていただきたいと思います。また,海外からの批判があった場合に国会答弁のような対応をして国際的に恥をかくことがないよう祈っています。
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2021.06.04
2021年6月1日から緊急事態宣言が再延長されました。
今回の緊急事態宣言は2021年4月25日に始まり,同年5月12日に延長となり,今回の再延長となりました。再延長の期間は同年6月20日までとされています。結局,今回の緊急事態宣言も2か月に及ぶこととなり,小出しの宣言は裏目に出たように見受けられます。
今回の緊急事態宣言が再延長されるにあたって,「こらえどころ」との言葉が報道されました。私はこの言葉を報道で最初に見たとき一瞬読めませんでした。「何だろう?」と不思議に思いました。そしてアナウンサーが読み上げるのをよく聞いて,やっと意味がわかりました。「耐えるべき時機」という意味だったのか,と理解しました。私の眼には「こらえどころ」という文字は見えていたのですが,ひらがなが並んでいるようにしか見えなかったわけです。
このようなことが為政者と国民の間にも生じているのではないかと,ふと思うことがあります。つまり為政者の眼に見える国民は本当に私たちなのだろうか。私が「こらえどころ」をひらがなの羅列にしか見えなかったように,為政者の眼に見えている国民は,単なる人の集団,または人ですらない何かでしかないのではないかと思うことがあるのです。
昨年以来,緊急事態宣言が出されるたびに政府や首長や医師会会長などの方々が「こらえどころ」と同じような言葉を述べていたと記憶しています。
瀬戸際,正念場,我慢,ヤマ場,勝負,真剣勝負,こらえどころ・・・・・・。
「もういい加減にしてくれ。」
そのように思った方も少なくないと思います。為政者たちは感染の終息に向けて政策を打ってきたかもしれませんが,その時の為政者たちが見る目線の先には何があったのか。
国民はそのことを敏感に感じ取り,遅まきながら政府の姿勢を批判する声が上がりつつあります。しかしその声が政府に届いているとはとても思えず,国民は疲れ切って無力感にいらだっているように見えます。そんな疲労困憊の国民に,さらに大きな試練が待ち受けています。現在の報道を見る限り,オリンピック開催は既定路線とされてしまっているようです。信じられないことにパブリックビューイングも予定されているとの報道もあります。オリンピック開幕の1か月前まで緊急事態宣言が延長されるというのに,開幕時にはパブリックビューイングで人が集まって良いというのは腑に落ちない方が普通だと思います。おそらく「席の間隔を空ける」「大きな声を出さない」といったルールを作るのでしょうが,それならば飲食店も席の間隔を空けて会話しなければ営業しても良かったのではないかと疑問が湧きます。また声を出さないパブリックビューイングに何の意味があるのかも疑問です。それならば家のテレビで見た方がよっぽど面白いと思います。
パブリックビューイングを中止したとしても,問題がないわけではなく,日本人選手が活躍すれば渋谷あたりで人混みが騒ぐのは経験から充分予測できます。そういった危険因子を政府や都は全てつぶすことができるのか。できなければ分科会が指摘するように感染拡大は確実です。それでも危険を冒して通常状態に近いオリンピックを開催しようとする政府や都には国民の存在が見えていないのではないかとさえ思えます。政府や都にとって国民は統計的に抽象化された数値,または富岳のシミュレーションに登場する灰色のポリゴン像と同じようなものなのではないでしょうか。数値もポリゴン像もコロナウイルスに感染することもなければ,解雇や廃業もありませんから,為政者らの頭の中にコロナウイルスに感染して苦しみ死に至る国民や,解雇や廃業によって生活ができなくなり,場合によっては死を選ぶ国民がよぎることもないわけです。ここまで軽視されれば,オリンピック開催中,開催後に感染者数が増加した時,我慢強いとされる日本国民でも,さすがに堪忍袋の緒が切れるのではないかと思います。
オリンピックの後には衆議院議員選挙が控えています。その時には,これまでの経緯を踏まえた政策評価をした上で厳しい態度で投票行動を採らなければならないと思います。
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2021.05.12
日本におけるコロナウイルスの感染はなかなか収まる気配を見せず,むしろ変異株による感染拡大が懸念されています。そのような状況の中でオリンピックを開催することができるのか,という疑問が抱かれつつあるように感じられます。
私は東京オリンピックについて招致段階では反対でした。東日本大震災その他の災害によって復興の途中にある方々が多くいらっしゃる中で,復興のために充分な支出をせずオリンピックに支出をするのはおかしいのではないかと思っていました。
その後,東京での開催が決まったため,オリンピックを開催することに対する疑問が一度は消えてしまいましたが,コロナウイルスの感染が拡大するのを見ていて,その疑問が再び頭をもたげてきました。開催に反対ということではないのですが,開催するのであれば国民に対する充分な説明が必要ではないかと思います。
オリンピック開催については主にインターネット上で賛否の対立が激しくなっているように思いますが,いくつか気になることがあります。それはオリンピックの開催に反対する方々に対して「左翼」などのレッテルを貼る意見が見受けられることです。オリンピック開催の賛否に政治的な偏りはあまりないと思います。極端な話,与党の国会議員の全員が開催に賛成しているとも思えません。上記のレッテルは最近特に増加してきた不健全な議論の方法です。その方法は,自分にとって都合の悪い意見に対して「左翼」とか「日本人ではない」といったことを述べて政治的に中立な方々や日本人であることをアイデンティティにしている方々に悪印象を与え,距離を取らせようとするものです。そもそも議論において論点と関係の無い立場や感情を交えること自体が非論理的であり妥当ではないのですが,twitter等で議論をしている方々はそこまで厳密に考えておらず,思考する時間も短いため,無意識にそのような妥当でない思考をしてしまうようです。このような不健全な議論(議論とすら呼べないもの)が積み重なって現在の世論のようなものが形成されているのです。
もうひとつ気になることは,ネット上の議論に参加する方が流動的であることを差し引いても,論調に一貫性がない,整合性がない,ということです。例えばコロナウイルスに関して言えば,医療従事者に感謝をしようという論調であり,これに反対する論調はあまり見受けられません。そして現在,医療従事者は医療崩壊の懸念からオリンピックを開催して欲しくないと言っています。医療従事者に感謝をするのであれば,オリンピックを開催しない方向に議論が進むはずです。しかし現在ネット上で目立つ(威勢が良い)論調は,オリンピックを開催する方向性です。酷い言い回しでは「この程度の感染状況でオリンピックを中止したら世界の笑いものになる。」といったものもあるようです。医療従事者に感謝をしようと考えた方が,このような意見を読んだ場合,酷い意見だと考えるのが普通だと思うのですが,いかがでしょうか。
以下,オリンピックに限らず,私が疑問に感じ,または他の方々がどのように考えているか知りたいことを列挙します。
1 感染拡大防止を理由として外国人の入国を制限することとオリンピックを開催することの整合性は取れているか。
2 日本国内の感染者数が欧米に比して低いからといってオリンピックを開催しても大丈夫であるということになるのか。前記1との関連も含む。
3 東京オリンピックの開催を当然かのように述べている方々は,2022年の冬期オリンピック(北京)についても当然,開催すべきであり,日本も選手団を派遣するのが当然であると考えているのか。
4 東京オリンピックまで約2か月となり,開催の方向で政府が動いているにもかかわらず,オリンピックのスポンサーCMや関連CMが流れていないのはなぜか。
5 大阪の感染状況を見て,これでも財政効率化等のために病院等の合併を進めることが適切か。
6 飲食店の営業を禁止することで感染拡大防止の効果が得られるのか(飲食店で飲食をしない客はどのような行動を採ると想定しているのか)。
7 主な感染経路が通勤電車である可能性をなぜ検討すらしないのか。
8 スーパーコンピューター富岳による飛沫感染のシミュレーションはよく見かけるが,富岳による感染者数のシミュレーション結果はないのか。
これらが健全な議論に資するかはわからないが,少なくとも考えてみていただきたい事項であると思います。
投稿者:
2021.05.07
2021年5月7日,緊急事態宣言が延長されたと報道されました。
思い返せば昨年の同時期,日本は緊急事態宣言の真っ只中でした。当時は必要最小限の買い物や仕事を除いて家にこもっていた方が多いように思います。当時(5月7日)の日本における1日あたりの感染者数(PCR検査陽性者数)は97名とのことです。昨年,1回目の緊急事態宣言が全国的に解除されたのが2020年5月25日で,この日の1日あたりの感染者数は20名とのことです。これは日本全体の数字です。
正直なことを述べれば,当時の私は感染がこのまま終息に向かうものだと信じていました。
昨年3月31日の記事でも述べたとおり,私は政府がオリンピックを開催するため,2020年9月までに何としても感染者数を0に近い数字に持って行く政策を打つと考えていました。そのために私権制限等が議論されるだろうとも思っていました。しかし実際には終息のために政策を引き締めるべき7月にGoToキャンペーンが開始され,その流れで年末年始には1日あたり7844人もの感染者数を出すことになってしまいました。その後の経過は皆さんもご存じのとおりです。
一度は終息に向かったはずの感染が再び爆発してしまったのはなぜでしょう。前記のように2020年5月25日の時点における感染者数が真実であれば,その20人及び当時の感染者が感染源となって感染が拡大したということは考えにくいです。やはり1つはPCR検査を絞りすぎて感染の実態を把握していなかったということでしょう。このことは当時のブログにも書きました。この点については失政を覆い隠すかのように否定するデータが報道されていました。つまり日本は中国由来のコロナウイルスについては封じ込め,流行したのはヨーロッパの変異株であると。そうであるとすれば実質的には新種のウイルスが国外から流入したということですから,入国政策が誤っていたということです。しかし国民は入国に関して気をつけようがありません。つまり国民は国の失政により無用の自粛を強いられたということなのです。こういった政策評価は早期に行われるべきであると思います。もちろん,失政ではないという意見やそれを裏付けるデータが出るでしょう。むしろ失政でない客観的根拠があるなら検討資料として開示すべきなのです。ないなら失政です。政策評価やそれに基づく議論もせず,データも出さずに「失敗していない」,「前を向こう」と言い続けているのが現在の政権と一部の首長です。
私はコロナウイルスに関する現政権と一部の首長のやり方を見ていて疲れ切ってしまいました。そして政策に関してはもう「前を向こう。」などとは言わないことにしました。これからは「振り返ろう。そして正しく評価しよう。」と言い続けたいと思います。
投稿者:
2020.12.30
年末を迎え,多くの人が今年を振り返っていることと思います。そしてほとんどの人にとって2020年はコロナウイルスとの闘いの年であったのではないかと思います。私にとっても2020年は,とにかくコロナウイルスに感染しないように息を潜めて生活する年でした。また振り返りがてら今年アップした記事を読み返すと,その時に書いた懸念が後々になって現実のものとなっているものも多かったように思います。
記事を読み返しながら思い出したのですが,2019年の年末に「2019年を振り返って」という記事をアップしようと考えていましたが取りやめた経緯があります。当時,記事を書いた後,ふいに嫌な予感がして,アップを取りやめたことを記憶しています。その嫌な予感は,記事に書いたことが当たっても外れても嫌な気持ちになるのではないか,というものでした。実際にアップしなかった記事の原稿を読み返してみましょう。
同記事は2019年を振り返って,「流行した歌がなかった」,「流行した芸人さんがいなかった」と書いてあります。歌に関しては2019年に既に話題になっていた「紅蓮華」が2020年になってヒットしたようです。芸人さんに関しては,いわゆる「第七世代」という言葉をよく聞くようになりました。しかし「第七世代」という言葉は2019年の年初には既に存在した言葉らしいので,「第七世代」の台頭は2019年だったようです。私が流行した芸人さんがいなかったと書いたのは,おそらく流行語にノミネートされるような目立った活躍をする方がいなかったという意味だったのだろうと思います。最近はテレビ番組を見る機会が減ってしまったため,流行歌や活躍している芸人さんを知らなかったり,後から知ったりしていることがわかります。
そして同記事は上記のような状況を分析して,「価値観の多様化」という言葉すら聞かなくなった現代においては,「価値観の多様化」の進行により,「価値観の多様化」という言葉すら必要なくなったのかもしれないと分析しています。さらに「価値観の多様化」の結果,流行を喪失した,と書いています。この分析は当たっているのでしょうか。
また同記事は末尾で2020年は「オリンピックが開催されるのでマスコミなどが決め打ちに入っていて面白くない」,「オリンピック以外で驚くような流行があればいいなと思います。」と締めています。今となってはマスコミの決め打ちが何だったのか分かりませんが,そのような傾向があったようです。そして私が引っかかったのは「オリンピック以外で驚くような流行」という部分でした。当時はまだコロナウイルスについては注目されていない段階で,私も日本で感染拡大するとは全く考えていませんでした。私が感じた嫌な予感はこれだったのかわかりませんが,嫌な予感ほど良く当たるもので,結果的にオリンピックは開催されず,良くないものが驚くほど流行してしまいました。
来年のことを言えば鬼が笑う,という言葉があります。意味としては,どうなるかわからない将来のことを言っても仕方がないということらしいのですが,私にとっては,来年のことを言うと良くないことが起こるという意味に解釈してしまいます。鬼が笑うのは災厄を起こす者が得意になっているように感じられます。奇しくも2020年は「鬼」にまつわるメディアが空前のブームとなりました。鬼は災厄の象徴とされます。コロナウイルスに苦しむ社会は災厄の象徴である鬼を退治する話に救いを求めたのかも知れません。
締めとして「2021年は・・・・・・という年になるといいですね。」と書きたいところですが,鬼が笑うので書かないことにします。
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