2019.03.26
2019年3月25日、東京地裁で選択的夫婦別姓を主題とする裁判につき、請求が棄却されたとのことです。
2015年に最高裁で現行制度を合憲とする趣旨の判決が出ているため、同判決当時から現在まで社会情勢の大きな変化がない限り判断が維持されるのではないかという予想はありました。そのため、短期的視点では今回の棄却判決も、そこまで大きな驚きはありませんでした。
しかし、長期的視点では、夫婦別姓制度について議論が進んでいないことに多少の驚きがあります。実は、私が大学1年生の頃、基礎科目の講義の中でディベートを行った際に私の班が選択した議題が「夫婦別姓制度」でした。当時の議論内容について詳しくは書きませんが、婚姻の本質や事実婚との相違といったことから考えていた記憶があります。一人の大学生にすぎなかった私たちが20年以上前に議論していた夫婦の姓についての問題が、四半世紀経った今、まだ大きな進展を見せていないことは驚きです。
同制度についての昨今の議論は「姓を変更する者の社会生活上の不便」といった事実上の話にスポットが当てられているように思われます。本来、夫婦の姓の問題は前記のような「婚姻とは」という視点から考察されるべきものであると思います。
では「あなたの意見は?」と聞かれると難しい点もあります。
夫婦が相互に助け合って協力しながら生活するという婚姻の性質や夫婦の一体性を強調すれば、夫婦の姓を統一することにも合理的理由があると思います(①)。また婚姻により包括的、画一的な法的効果を生じさせる現行の制度においては夫婦によって効果が区々となることはなじまないかもしれません(②)。しかし、①については内縁関係が社会的に認められているなど、姓の統一が夫婦の相互扶助や一体性と必ずしも関係しないことは一般的に受け入れられていると考えられます。また②については社会の変化に伴い、婚姻の性質も変化しました。現代では過去に比べて個人主義が推し進められ、婚姻の意味も個人により多様になっています。近時では婚姻の契約的側面が注目されることも増えてきました。こういった社会の変化から考えれば、婚姻に伴う効果やこれを社会に反映する制度についても多様性が求められると考えてよいのではないでしょうか。したがって、これまでのように画一的な婚姻の性質などから導かれていた夫婦同姓制度の理論的根拠は必ずしも妥当しなくなってきていると思います。
その上で、私の見解について述べると、まず前記のとおり、婚姻そのものの多様化により、婚姻に関する制度の多様化も求められていると考えます。そして私は先日のブログ(2019年3月14日)に書いたように、人の幸せは選択できることにあると考えていますので、姓についても選択できることが幸せであると考えます。したがって個人の幸せを考えるならば、夫婦で同姓となることも、別姓となることも選択できる制度の方がよいということになります。かなりシンプルですが、そういうことです。
なお、夫婦別姓を導入した際に予想される戸籍の問題や子の姓の問題ですが、外国人と結婚する場合について大きな問題となっていないようであれば、日本人どうしの場合にだけ問題にするのは一貫しないように思われます。そうすると夫婦別姓を容認する制度について障害は少なくなってきているのではないかと思われます。
私の見解に対しては、法政策の議論が抜けているなどのご指摘があるかと思いますが、そういった議論は内容が難しくなるので、このブログでは控えさせていただきます。
何はともあれ、前記の訴訟は最高裁まで争うようなので、どのような結論が出るか、注目したいと思います。
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2019.03.23
平成31年3月22日、東京医科大学の過去の医学科入試において不正が行われていた件で、元受験生の方々が同大学を被告として損害賠償を求めて東京地裁に提訴した報道がありました。
この問題が大きく採り上げられたのは平成30年の7月から8月でした。当時、私が入院していたこともあり、興味を持って報道を拝見していました。東京女子医大の「創立者の想い」を読んだりもしました。この問題については様々な識者の意見が述べられており、私もこれらの意見のいずれか、部分的に同意ということで、特に改めて述べることはありません。敢えて角度を変えて述べるとしたら、女子の進学、就業については過去に比べれば進歩したものの、未だ進歩の途上にあることを忘れてはなりません。そして変化により新たな歪みが不可避的に発生するのであり、その歪みから目を背けてはいけません。問題の解決のために現在苦しんでいる人や、これから進学等に臨む人の意見を聞くことも大事ですが、問題の本質を理解するためには、過去に進学を希望することすら認められなかった世代の方々、特に進学できなかった方々の話を聞くことが必要だと思います。現在メディアで発言できる方々は、進学できた方がほとんどです。医学部入試問題もそうですが、進学できなかった方々の声の方が問題の本質を理解しやすいともいえるのであり、このような方々の声をメディアその他、様々な方面で発信し、耳を傾ける必要があります。
話を戻しますと、医学部入試についてはこの問題以外にもたくさんの問題があると思います。
まず私大の医学部に入学し、卒業するためには6年間で数千万円の学費が必要です。私が知人等の医師から聞いた私大医学部の学生生活の状況から計算すると、学費以外の生活費や交際費も相当の金額になるはずです。入学前の受験についても子どもの頃から塾やら予備校やらに相当の費用が投じられていることも想像に難くありません。このような費用がかかるのでは相当裕福な家庭に生まれない限り、私立の医学部を志望することはできません。この点については「国立に進学すればよい」という意見もあるでしょう。この反論についてはある程度理解できます。しかし、医学部入学がほぼ医師になることと同義の制度において、その入口で貧富の差があからさまに反映されることに不安や不公平を感じます。例えば受験生の選択肢が不当に狭められる可能性を無視してはいけません。というのも医学部は大学の偏差値に関係なく、ある分野において優れた研究を行っている大学が多数存在し、これは国立、私立関係ありません。そのため、ある分野を研究したいと思った裕福でないが優秀な受験生がいた場合に、その分野について優れた成果を上げている大学が私大であるということはあり得ます。この場合に親の財力で選別してしまうと、このような優秀な受験生の進路は不当に狭められてしまいます。これは研究成果の話に限らず、「医師としての精神」などについてもあてはまります。このような観点から、どうしても「その私大」に入学したい受験生も存在するのです。したがって「お金がないなら、国立に行けばよい」ということにはなりません。
また今回の医学部入試問題でも明らかになったように、医療の現場は多様な能力により成り立っています。この多様な能力とそれが秘める可能性を親の財力という篩で落としてしまうことは妥当でしょうか。
私は医学部について、ある程度、財力に関係ない選択ができるようになるべきであると考えます。そしてそのような制度が整備されることを願っています。
もう一つ、私が相当以前から思っていたことがあります。
それは、埼玉県に国立の医学部を設置してほしいということです。
確かに埼玉県には防衛医科大学が存在します。しかし防衛医科大学は卒業後の進路に制限がある(と聞きます)など、特殊な大学といえます。他の国立大学と同様に、大学を卒業後、その地域に定着しやすくするような制度設計が可能な医学部が埼玉県にも存在しなければ、他の都道府県と平等ではないと思うのです。
また現実的な問題として、最近、埼玉県に医師が不足していると聞きます。特に小児科医が少ないのではないかと聞いています。この現象が国立大学医学部の存否と関係するか否かは明らかではありませんが、整合はしています。
一刻も早く、埼玉県に国立大学の医学部を設置してほしいと願います。
この他にも医学部入試に関して外部から見て感じられる問題点は書き切れないほどあります。また、医師の過酷な労働環境など、医療の現場についても問題は山積みでしょう。医学部入試が医師になることとほぼ同義の制度において両者の問題は一体となって検討されるべきであると思います。
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2019.03.16
日本の教育で初めて憲法について学ぶのは中学の社会の時間でしょうか。私も中学の頃に憲法前文を全て覚えた記憶があります。司法試験の口述試験では憲法前文どころか、全ての条文を暗唱できるようにしました。ところが本番で条文の文言を聞かれたのは憲法25条1項だけでした。これも良い思い出です。
法学部に入学したり、資格試験や公務員試験を受験するといったきっかけがなければ、一般の方は憲法の前文や条文を読むことは少ないと思います。実際、興味が無い方が読んでも面白いとは感じないかも知れません。しかし、憲法をよく読むと興味深いこと、考えさせられること、制定に携わった方々の情熱などを感じることができます。特に前文の宣言は力が込められていて大変かっこいいと思います。
本当は面白くてかっこいい憲法をもっと多くの人に読んで欲しいと思っている弁護士は多いと思います。私もそう思います。特に個が全体のために存在するかのような風潮が強まってきているように感じる昨今、個人が大切であることを教えてくれる憲法は読む人に勇気を与えてくれるのではないかとさえ思います。
とはいえ、頭から読んでも眠くなる、ということで、気軽に面白がって読む方法を考えてみたいと思います。
憲法について学校で教えられることをキーワードで表現すると、「人権・民主・平和」、「教育・勤労・納税」、「司法・立法・行政」といったところが有名でしょうか。いずれも3つで成り立っていますね。
憲法の3大〇〇を考えることも面白いかもしれません。
例えば憲法は権利や義務について定める他に、多くのことを「禁止」しています。そこで「憲法の3大禁止」を考えてみるのはどうでしょう。司法試験受験生ですと、「検閲」(21条2項前段)が浮かぶかもしれません。前回のブログで触れた児童酷使の禁止(27条3項)もあります。
真面目に頭から読んでいくと、9条は戦争や戦力の保持を禁止していると考えることができそうです。12条には「国民は、これ(自由及び権利)を濫用してはならない」とあります。14条2項は貴族制度を禁止しています。15条4項前段は投票の秘密の侵害を禁止しています。18条は奴隷的拘束などを禁止しているといえます。また精神的自由と呼ばれる19条から21条には、やはり何かしらの「禁止」が含まれています。このように見ると、たくさんの「禁止」が出てきます。
そのような中で、憲法が「絶対に」禁止していることがあります。
それは36条です。同条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」と規定しています。同条は死刑廃止論にも関係します。「絶対」の文言に強い決意を感じることができますね。仮に順位をつけるとしたら、36条の順位は高そうです。
そして36条を含む31条から39条は主に刑事手続について規定しており、禁止の連続です。このことから憲法は刑事手続において国民の人権が侵害されないことを重視しているといえます。ちなみに34条に「弁護人」がでてきますので、憲法との関係で弁護人が負う責任は大きそうです。(この点はよく誤解されたり、質問を受けるところなので、また今度お話ししたいと思います。)
このように「禁止」の視点で憲法を読んでみると、憲法がむしろ「禁止」で成り立っているとさえ思えるのではないでしょうか。そして矛盾するようですが、憲法の3大禁止を決めることが憚られるくらい、大切なことが「禁止」によって守られていると思えるのではないでしょうか。
最終的に憲法の3大〇〇を決められなくても、こういった視点を設定して拾い読みするだけでも色々なことを感じ取ることができること、楽しく憲法を読めることが少しでも伝われば幸いです。
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2019.03.14
昨年、ホームページを開始してから、まともにブログを更新せず、時間だけが経過しました。正直なところ、真面目な話題を書くべきなのか、砕けた内容の方が良いのか迷いました。そして考えた挙げ句、やはり最初は真面目な内容にしようと決めました。
私の個人的な考え方に対してはご不満を抱かれる方もいらっしゃるかも知れませんが、広い心で受け止めていただければ幸いです。
最近、親による子どもの虐待事件が連日のように報道されています。他方、児童相談所の建設について賛否入り乱れる様子も記憶に新しいです。また角度を変えてみると相対的貧困の問題も注目された時期がありました。
これらの報道ではいずれも子どもが被害者となり、また我慢を強いられる立場になっています。
このような場合、子どもを保護しよう、良い生育環境にしよう、と考えることについて異論はないと思われます。
しかし、この考え方が当然すぎることとして固定してしまい、思考が放棄されていないか、不安になることがあります。
子どもを保護するにしても、実際に監護している親のもとから子どもを離脱させることは大変な困難を伴います。無理をすれば子どもの心に傷をつけることもあります。手続の問題もあります。特に緊急の場合を除けば法の手続にしたがわなければ行政機関は動けません。昨今の議論においては、こういった様々な困難について想像を巡らすことなく、簡単に子どもを保護できると考えられているのではないかと感じます。その結果、現場で対処している方々に過剰な非難が向けられることもあるのではないかと思います。言語道断の対処は別として、判断が難しいことや手続上の問題があることについて思考を巡らせる必要があるのではないかと思います。なお、子どものためには、虐待が起こらないことが理想なのはいうまでもありません。
また貧困の問題にしても、収入の低い世帯に金銭を給付する政策ばかりが話題に上がりますが、それが本当に実効的か、真に子どものためになる方法は他にないかがあまり検討されていないように思われます。もちろん、この点について政策を提案している政治家の方などは存在すると思いますが、そういった政策がクローズアップされないことに問題があります。子どもを守れと叫ぶ社会は本当に子どものことを真剣に考えているか、疑問といわざるを得ません。
子どもの幸せとは何か。
私を含め、あまり深く考えずに賛否両論を勝手気ままに述べていないでしょうか。
私は人の幸せは「選べること」であると考えます。憲法上規定されている「選べること」には、「選挙権」(憲法15条1項)があり、「職業選択の自由」(憲法22条1項)があります。「配偶者の選択」も憲法に規定されています(憲法24条2項)。その他、人生において「選べること」は数多くあります。現代では当たり前になりましたが、「自分で選ぶこと」は昔はほとんど認められなかったのです。
これに対して子どもはどうでしょうか。子どもには選挙権はありませんし、職業を選択することもありません。配偶者の選択もできません。その他、生活において「自分で選ぶこと」はあまりありません。
そして、子どもは生まれる家や親を選ぶことができません。だからこそ親による悲劇は選ぶことができなかった子どもにとっての最大の不幸ともいえるのではないでしょうか。
では選ぶことができない子どもにとっての幸せとは何でしょう。
一つは、子どもが将来選ぶことができるようになるための知識や能力を身につけられることです。これは教育を受ける権利(憲法26条1項)などによって実現すべきことであり、将来においてその幸せに気付く類いのものでしょう。そして子どもの頃において大きな意味があるこの幸せが、ある意味「子どもの幸せ」だと思います。
もう一つ、忘れてはならない幸せがあります。
それは、大人と共通する幸せであり、単純に「生きていると実感すること」です。究極的には死の危険にさらされないことであり、通常は苦痛や貧困から遠ざかることです。憲法も「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法25条1項)を規定し、子どもについては特に「児童は、これを酷使してはならない。」(憲法27条3項)と規定しています。また忘れられがちですが、憲法25条2項は「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定して、いわば貧困を予防することを国家に求めています。
この幸せは忘れられがちです。それは大人自身が自分の幸せを実感できずに忘れてしまっているからです。この根源的な幸せを実感できない大人は子どもにもそれを与えることができません。それは悪意によるのではなく、忘れているのです。その結果、子どもを虐げ、苦痛を与えてしまうのです。これは決して虐待する親を擁護するのではありません。本気で子どもの虐待をなくしたいのであれば、こういった観点からの対策も考えるべきではないでしょうか。
繰り返しになりますが、子どもの幸せは最低限、大人の幸せと同じです。
そして親が幸せを実感できる環境を整えることで子どもの幸せが実現できます。
実現には時間がかかるかもしれませんが、本来は憲法が目指していたはずの国家・社会像です。
(憲法前文より抜粋)
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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