2023.08.14
日本国内において8月15日は終戦の日,終戦記念日と呼ばれています。
1945年8月15日に日本がポツダム宣言受諾及び日本の降伏を玉音放送をもって国民に公表した日であることから,この日を終戦の日とし,毎年この日に追悼行事等を行うことが恒例となっています。
しかし実際にポツダム宣言に調印した日は1945年9月2日であり,日本以外の国では同日を終戦の日とするようです。
さらに国際法的なことを言えば,戦争状態が終了したのはサンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日であることになり,この基準によるとまだ戦争状態が終わっていない国家もあることになりそうです。
実際,日本は終戦後,戦争がなく平和な国だ,と言われますが,実際にはそんなことはなく,1950年には朝鮮戦争が勃発し,日本も「朝鮮特需」で表現されるように戦争に関与したと評価されています。日本が平和であると言われてきた理由の一つとして,戦争に関係する特需を頼りに経済復興を遂げた負い目のようなものから目をそらすために意識的に戦争が報じられてこなかったということもあったのではないかと思います。
特需に依存した景気回復はその後,歪な経済成長の道を辿り,30年以上回復することのない不景気に転じたことは誰もが知るところです。そして落ちるところまで落ちきったのか,まだ底は下なのかわからない不安を抱えながら国民は低賃金,高物価,高税率に苦しみ続けています。国民が政府に対して抱く不満は爆発寸前のように思われます。このようなときに支配者が何をするか,歴史上は明らかです。国民の不満を外国に向けようとします。現在,政府が旅行に来る外国人を優遇するのに対して日本に住む外国人を冷遇していることは一つの面といえます。もう一つ,政府は日本が外国から戦争を仕掛けられるであろうことをしきりに喧伝するようになっています。どこの国とは特定せず,脳に刷り込むように小出しに報道させているところが姑息なようにも思われます。このまま政府主導の報道内容を無批判に受け入れていけば,近いうちに日本人の多くは,ある複数の国が日本の領土に攻め込もうとしており,または攻撃を仕掛けようとしており,危険にさらされる,だから日本は牽制できる状態にしなければならないのだ,という思考になるでしょう。この状態になってからでは遅いので,常に批判的に情報と接する必要があると思います。
これに加えて最近気になることは,戦争の悲惨さを伝える書籍等が排除されたり,終戦の日に戦争について考えさせる番組がなくなったことです。
書籍等が排除される例としては「はだしのゲン」が図書館から撤去されたり,平和教育の教材から排除されたりしていることが挙げられます。描写が気持ち悪いとの意見がありますが,むしろ戦争の悲惨さを伝えるためには表現を緩めるべきではありません。また誤った歴史認識を植え付けるという意見もありますが,何をもって誤った歴史認識であるのか,公開した上で検討の機会を市民に与えるべきでしょう。また戦後の歴史については研究期間も短く,感情面の対立から正確な情報が得られず議論もできないことが想像され,さらには非公開の外交文書も多いであろうことから,客観的・学問的に定まった「歴史」というものはないと思われます。そういった段階で「誤った」という評価はできないはずで,当時の被害者から見た事実として認識する価値があると思われます。もちろん,異なる意見や認識に触れることを阻害することも許されません。「はだしのゲン」は戦争や核兵器の非道さを学ぶための良い教材であると考えます。広く子供の平和教育に使用されることを望みます。
終戦の日に戦争について考えさせる番組がなくなったことについては,私が子供の頃には,終戦の日に必ずと行っていいほど「火垂るの墓」が日本テレビで放映されていました。これも内容について色々議論があるようですが,当事者の誰をも美化していない表現は戦争の追体験として価値があるのではないかと思います。
日本が再び戦争を起こすことがないようにするためには,敗戦時に「二度と戦争をするまい」と誓った国民の気持ちを追体験することが有益であり,「はだしのゲン」や終戦の日に戦争について考えるテレビ番組を見ることがその役割を担っていたことは明らかです。それが排除されようとしている今は,再び戦争をしてもよいのではないかと思わせる方向に動かそうとしている策が講じられているように感じます。そのような方向に向かうべきでないことは繰り返し述べてきました。
終戦の日には是非とも戦争について考える時間を持ってほしいと願うばかりです。
投稿者:
2022.08.04
中国が弾道ミサイルを9発発射し,うち5発が日本の排他的経済水域に落下したとの報道がありました。中国はそもそも日本の排他的経済水域について争っているので主張が噛み合いませんが,いわゆる有事の様相を呈してきました。
それにともなって予想どおり,憲法9条では日本を守れないから改正しろ,という意見がネットに溢れ始めました。しかし,このような意見を述べる方は9条を改正すれば中国が引くとでも思っているのでしょうか。答えは明白で,引くわけがありません。中国は軍事大国であるアメリカに対しても強硬な姿勢を示す国であることから,たとえ日本が「9条を改正したので気兼ねなく戦争をすることができます。」と言ったところで,怯む訳がありません。むしろ先制攻撃のおそれを口実に侵攻してくる可能性すらあります。
外交や戦争は我々が考えているほど簡単な話ではないのです。
9条を改正するべきであるとの意見を述べる方々は,具体的にどのような改正をして,その結果,日本がどのような状態になるかを考えているか疑問があります。大概は「他国に舐められて悔しいから,威嚇しよう」くらいの考えのように見えます。
日本国内では9条改正について大きく分けて2つの案に分かれているといえます。1つは(A)戦力保持を正面から認める(自衛隊を明記するも含む)であり,もう1つは(B)現在の9条を改正しないが自衛隊は存置させる,という2つに分けられます。立場を明確にしている党でいうと,自民党がAで,立憲民主党,社民党,共産党がBのようです。その他の野党は明示していませんがAに賛成するようなニュアンスの党が多いように思われます。
そもそもBは9条が戦力保持を認めないという解釈を採用しながら自衛隊の存置を事実上認める点で問題があり,この点が長年の国防政策の論点であったわけです。このように書くとB論者を責めているように思われるかも知れません。しかし気をつけなければいけないのは,Bの立場は従来の政府解釈つまり長期に渡って政権を担っていた自民党の解釈であるということです。何十年にも渡って自民党は9条が戦力保持を認めていないことを認識しながら,外交,国防政策上の必要に迫られた結果,自衛のための必要最小限の実力という苦しい政府解釈を維持してきました。その自民党が今度は戦力保持を正面から認めようというのですから,自民党は保守政党を捨てて革新政党を目指すということなのでしょうか。
話が逸れましたが,Bには前記のような問題点があるとして,Aについては問題がないのでしょうか。
Aに改正した場合,日本は気兼ねなく戦力を保持できるようになります。しかし,だからといって現状から何かが変わるわけではありません。現在でも国防費は増加しており,世界的に見ても国家財政の大きな割合を占めています。この事実はBでも同じであり,Aに改正したからといって変わりません。これに対してAに改正した場合には集団的自衛権の議論が進みやすいという意見があるかもしれません。しかし集団的自衛権についてはその定義や適用範囲といった初歩的な事項から争いがあり,日本が戦力を保有できるようになったからといってスムーズに話が進むものでもありません。結局,Aに改正したからといって何かが大きく変わるわけではないのです。
むしろAに改正した場合,米軍基地の存在理由に問題が生じてくる可能性があります。つまり,米軍が日本に駐在できる建前上の理由は,日本が本来的に戦力を保持することができず,自衛という限られた局面でしか実力を行使できないことから,米軍が日本を守る必要がある,というものです。しかしAに改正した場合,日本は自前で戦力を保持することができるのですから,米軍に守ってもらう必要性が揺らぎます。それでも現在と同水準の米軍を駐在させることについて政府はどのように説明するのでしょうか。「状況(保持する戦力自体)は変わらないから米軍も減らさない」というのでしょうか。そうだとすると私が先程述べた「改正しても大きくは変わらない」という主張は正しいことになります。変わらないなら改正をする必要があるのか,という疑問が湧くことになり,改正議論にブレーキがかかることになります。このような思考過程から,政府は大手を振ってAを主張することができない状態にあるのではないかと思われます。だからこそ「自衛隊を明記する」という中途半端な改正案になったのではないでしょうか。
このようにいずれの説にも問題点があり,厳しい表現になりますが,両説とも自己矛盾を起こしてしまっています。そのため国民は矛盾を抱えたままの選択肢を突きつけられ,苦しむことになります。
いずれの説が正しいとは断定できません。ただ少なくとも言えることは,いずれの説を選択するにしても,日本が戦前・戦後に歩んだ歴史と正面から向き合い,正しい理解に立脚した上での選択になるよう最善が尽くされる必要があるということです。
有事に乗じて急いで決めることは絶対に避けなければなりません。
外交や国防の根本事項は有事に急いて決められるほど簡単な話ではないのです。
投稿者:
2022.07.21
令和4年7月8日,安倍晋三氏が街頭演説中に銃撃され亡くなりました。
当日と翌日はセンセーショナルかつ過剰に報道されていましたたが,現在では宗教団体の話にすっかりすり替わってしまいました。
犯行動機が報道され,それなりの説得力を感じる人が多いようです。しかし被疑者が宗教団体を憎んだとして,その宗教団体と被害者との間に関係があったとして,その被害者の影響力が強かったとしても,被疑者が被害者の殺害を決意するには相当の飛躍があります。この辺を誤魔化さずに捜査なり,弁護の過程で明らかにすることが,この事件との本当の意味での向き合い方なのではないかと感じています。
もちろん被疑者にとっては一つの合理的な物語として成立しているのかもしれません。被疑者の人生,人格のわずかな部分しか情報を得られない我々にとって,被疑者の口から出てきた言葉だけでは見えないところが多すぎます。
私たちは被疑者や他人のことが見えませんが,それ以上に自分のことが見えていないことも事実です。自分を見ることとは,外面的には鏡などの映像を見ることですが,内面的には思考を深めることです。我々は鏡などがなければ自分の像を見ることができず,思考を深めなければ自分を形作る思想等を認識することができません。よく「立体的な思考」ということがありますが,物事や思想を複数の視点から捉えて像として構築するという意味では思考を深めることと同様です。
しかし,こういった思考ができる人間は限られています。学歴を重ねた方々でもできない人は多いように感じます。かくいう私もできているかはわかりません。
さらに人間は時間が加わるとさらに自分が見えなくなります。時間をおいて自分の思考が矛盾することを自覚することができないのです。
最近ではTwitterなどの普及によって,気軽に自分の意見を発信することができるようになりました。気軽な発信ほど一時の感情等に流されているものが多く,後日,矛盾した内容が発信されていることは多くあります。こういった矛盾はいわゆる評論家や知識人にも増えていて,過去に発信した内容と矛盾したことを言っている人は多くいます。その多くはよく調べもせずに敵対している方々を攻撃し,後日調べてみたら違った,というものです。知識人は矛盾に気付くと言い訳をするのですが,それが返って見苦しく見えます。
今回の件でも,安倍氏が襲撃されたのは,安倍氏を否定する人々が被疑者を洗脳したからだ,というとんでもない意見が平気で流布されていました。しかし結果は皆様ご存じのとおりです。もちろん,今の結果が後日覆ることもあるので,発信は慎重にしなければならないと思う次第です。
今回の件で私たちには見えないところで苦しむ人が存在し,それが明らかにされず,救われもせず放置されている現実が明らかになったともいえます。また日本の政治の見えないところが初めて公になったともいえると思います。今回の件を簡単に終わらせることなく,社会を良い方向に進むきっかけにしてほしいと思っています。
投稿者:
2022.03.18
ロシアによるウクライナの侵攻があって以降,憲法9条に関する議論をすべきとの意見が見受けられます。それらの意見の大多数は,9条についての理解に基づいておらず,大国による侵攻を目の当たりにして焦った末の行動か,今回の事態をチャンスとみて自分の意見を通そうとしているもののように思われます。つまり9条改正が必要かについて,あまり深くは考えられていないように見受けられるということです。
少し前まで,政府も9条改正を訴えていました。改正が必要な理由として政府は,「自衛隊の合憲性の問題に終止符を打つ」といったことを述べたと記憶しています。しかし自民党を基盤とする歴代政府の立場は,自衛隊を「合憲」とするものです。近時の政府も自民党を基盤としていることから,自衛隊を「合憲」とする立場かと思います。そして自衛隊が合憲である以上,9条の改正は必要ないはずです。
それでも改正が必要な理由は何でしょう。この点について考え得る説明は「自衛隊関連法案の審議の度に自衛隊の合憲性が問題となり,法案審議が円滑に進まないから」といったものが考えられます。しかし,憲法は国家の基本法であり,9条はその中でも3大主義の一つを構成する根本的理念です。そのような重要な条文を法案審議の円滑化といった理由で改正することは説得力がないように思われます。
おそらく政府与党による近時の立法及び将来の立法を考えると,従来の政府解釈でも自衛隊等についての正当化が苦しいことを政府自身が認識しているのだと思います。
そもそも憲法は自衛隊のような組織を日本国が保有することを認めていないのでしょうか。
9条の解釈について,いわゆる通説は,侵略戦争に限らず自衛戦争も放棄しており,戦力不保持の範囲も限定しないというものですから,通説に従えば自衛隊は違憲になりそうです。
通説の他にも複数の説が存在するのですが,自衛隊については違憲とするものが大多数と思われます。
このように述べると,「そんなはずはない」,「弁護士はおかしい」,「憲法学者はおかしい」といった声が飛んできます。しかし,理屈としてはそうなのです。
とはいえ,戦争を放棄し,戦力を保持しないと規定する日本国憲法が自国の安全をどのようにして保障するつもりだったのか,という疑問が湧くのも当然だと思います。
この問いに対し,憲法前文は以下のように答えます(宮澤俊義「全訂日本国憲法」参照)。
「日本国民は,・・・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
つまり他国が戦争を起こさないと信頼することで自国の安全を保障するということです。
さらにこの点については,清宮四郎先生の「憲法Ⅰ」において以下のように書かれています。
「非常な決意のもとに,あらゆる戦争を放棄し,一切の戦力を保持しないことにした。その結果,自国の安全と生存を諸外国民の公正と信義にゆだねることになるが,それは覚悟のうえである,というのである。」
つまり,日本は他国から侵攻される危険に晒されるけれども,それはわかった上で敢えて戦争や武力を放棄した,ということです。
このような日本国憲法の決意,理念は,全ての国家が軍を保有していると言っても良い世界情勢においてはドラスティックといえます。理解に苦しむという意見があってもおかしくはありません。
日本がこのように「非常な決意」をした背景には,第二次世界大戦,太平洋戦争における悲惨な経験を通じて,二度と戦争をしたくないと国民の誰もが考えたという歴史があります。
前掲「憲法Ⅰ」にも以下のように書かれています。
「この憲法で,極めて徹底した戦争の放棄・軍備の撤廃という,世界史上画期的なくわだてをあえてしたが,それは,単に国をあげての大戦争に敗れ,ポツダム宣言を受諾した結果,やむをえないものと認めたからではない。冷静に過去の行為を反省するとともに,国家・人類の将来進むべき道を考察してみた場合,そこに自ずから恒久平和の念願が湧きいで,また,人間相互の関係を支配する崇高な理想-友愛・協和-を深く自覚するに至ったからである。」
「世界史上画期的」とあるように,日本国憲法は世界に類を見ない究極的な平和主義を標榜していると言っても過言ではありません。
このような究極的な平和主義に対しては,軍隊を保有する国家に囲まれている現状においては現実的でないという意見があると思います。そのような意見を否定するつもりはありません。しかし,日本国憲法が悲壮ともいえる決意を表明するほどに戦争というものは醜悪,有害なものなのだということを感じ取るべきではないでしょうか。戦争を簡単に表現するならば,「見ず知らずの人間どうしの殺しあい」です。そして大義を語って戦争を慫慂する人々は,安全な位置から醜い殺しあいを眺めているだけなのです。
もし9条を改正して日本が戦争をできる国にする場合,その改正が意味することは,自分が,自分の子どもが,自分の愛する人が,自分を愛してくれる人が戦争に行って醜い殺し合いをすること,ひいては殺されることを認めるということです。
9条改正の議論は,自分が戦争に行くことはないとたかをくくっている人々に任せてはいけません。自分のこととして,自分の愛する人のこととして考えていただきたいと願います。
投稿者:
2022.03.05
ロシアによるウクライナ侵攻により,憲法9条に関する論争が急激に増えているように思います。
憲法第9条というと漠然と「戦争を放棄している」「軍隊を持てない(けれど自衛隊は持てる?)」くらいに理解されている方も多いのではないでしょうか。それでも一般的な理解としては充分なのですが,9条の存在意義や改正議論を適格に論じるためには補充が必要です。
そこで今回は9条の難しい用語を中高生でも理解できるように解説してみたいと思います。
まずは条文を見てみましょう。
9条は2つの項で構成されています。
1項 日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,⑴国権の発動たる戦争と,⑵武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため,⑶陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。⑷国の交戦権は,これを認めない。
下線部の用語を順に説明します。
⑴ 「国権の発動たる戦争」
「国権の発動たる戦争」は「戦争」と同じ意味とされています。
では「戦争」とは何でしょうか。
「戦争」とは,簡単に表現すれば「戦争を始めます」という意思が表明されて(宣戦布告),皆さんが考える戦闘状態が始まることです。一般的には,宣戦布告に伴って戦時国際法規が適用されることになります。
では国が「戦争を始めます」と言わなければ「戦争」にあたらず,憲法で禁止されないということでしょうか。この点は次の項で述べます。
⑵ 「武力による威嚇又は武力の行使」
前記⑴の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」は異なるのでしょうか。
ア 「武力の行使」
条文上の順番とは異なりますが,先に「武力の行使」について説明します。
結論から言うと,「武力の行使」は宣戦布告なしに行われる事実上の戦争を含むとされます。先ほどの「戦争」の定義から,宣戦布告がない場合には「戦争」にはあたらないことになりますが,その場合には「武力の行使」にあたるため,禁止されます。
日本が歴史上,「武力の行使」をした例としては満州事変や日中戦争があります。
イ 「武力による威嚇」
「武力による威嚇」がまだ戦争の状態でないことは何となくわかると思います。その上で「武力による威嚇」とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。
「武力による威嚇」とは,「他国に対して,こちらの要求を受け入れなければ,武力に訴えてその主張を通すという意志を示して,その他国を脅かすこと」とされます。
日本は過去に他国から「武力による威嚇」を受けたことがあり,反対に他国に対して「武力による威嚇」を行ったこともあります。
日本が「武力による威嚇」を受けた例が「三国干渉」です。「三国干渉」とは1895年4月,フランス,ドイツ,ロシアが日本に対して武力を背景にして遼東半島を返還するよう要求した事件です。
日本が「武力による威嚇」を行った例が「対華二十一か条要求」です。「対華二十一か条要求」とは,1915年5月,日本が中華民国に対して武力を背景にして21個の要求をした事件です。
⑶ 「陸海空軍その他の戦力」
「戦力」については,その解釈が最も問題になります。
「戦力」の意義と自衛隊の存在の相克が現在の9条論争の中心ともいえます。
ア 学説の解釈
学説は「戦力」について広く解釈するものがほとんどです。
「戦力」を最も広く解釈すると,「戦争に役立つ可能性のある一切の潜在的能力」となりますが,この場合航空機なども「戦力」にあたることになってしまいます。
「戦力」についての通説の解釈は「軍隊および有事の際にそれに転化しうる程度の実力部隊」とします。この場合,自衛隊は「戦力」にあたることになります。
イ 政府の解釈
これに対して政府は「戦力」について,かなり狭く解釈します。
政府による公定解釈は,「自衛のための必要最小限度の実力」というものです。
この定義は具体的にどの程度であれば「戦力」にあたらないかがよくわかりません。この点について政府は「他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できない」と説明しています。この説明を聞いて,皆さんは現在の自衛隊が「戦力」にあたると考えるでしょうか。それともあたらないと考えるでしょうか。
⑷ 「国の交戦権」
「国の交戦権」の意義については2つの解釈があり,一つは「国家が戦争を行う権利」とし,もう一つは「国家が交戦国として国際法上認められている各種の権利の総体」とします。
いずれの解釈を採ったにしろ,1項と2項の関係または存在意義の説明が難しいとされているようです。
以上で憲法第9条の基本的な用語の説明ができました。
憲法第9条の解釈については,結論として自衛隊を保持することが違憲であるという点では大多数が一致しているようですが,細かい解釈については項を跨いで考えなければならないなど難解な問題が複数存在します。とりあえずは上記のような基本的な意味を押さえた上で,憲法は平和主義を採用していることと,憲法第9条の解釈においても原理・原則から離れないことを意識できれば充分ではないでしょうか。
参考文献:全訂日本国憲法(日本評論社)
投稿者:
2022.02.25
2022年2月24日,ロシアがウクライナに侵攻したとの報道がありました。
これにともない日本のtwitterでは侵攻を非難する内容が多数投稿されるとともに,なぜか憲法9条に対する八つ当たりのような内容が見受けられます。例えば「9条で戦争を止められるなら,ウクライナに行って戦争を止めてこい!」といった趣旨の内容です。少し冷静さと理性を欠く内容と思われます。読む側も,こういった投稿に流されないようにしていただきたいと思います。
一般国民であれば多少の逸脱も理解できなくはないのですが,国会議員も冷静さを欠いた議論を始めているようです。予め申し上げますと,私は以下の議論のいずれにも賛成する立場ではありませんことを前提にお読み下さい。また全ての流れを見たわけではないので,誤っていたら申し訳ありません。概ねの流れとしては,ある国会議員Aが「侵略行為をするようなリーダーが選ばれても国家として侵略行為ができないようにするのが憲法第9条である。」という趣旨の発言をしたのに対して,他の国会議員Bが「それでは他国のための9条になる。9条によっても他国からの侵略は防止できない。」と反論したとのことです。この議論は噛み合っていないように思われます。Aの発言は「憲法9条のような規定を持つ国家による侵略行為が防止される」ということにとどまるのですが,なぜかBの反論はそこから「他国が侵略してくる」という話になっています。Aは侵略行為を非難する立場から,自国による他国に対する侵略行為を防止する手段としての9条の話をしているのに対して,Bは国防の見地から,他国による自国に対する侵略行為を防止する手段としての9条の話をしています。前提が共有されていないため,いくら議論しても噛み合わないのだと思われます。どちらが正しいということではなく,混乱を避けるため議論自体をしない方が良いのではないでしょうか。以前も述べましたが,twitterは文字数が限られているため,複雑な議論には向きませんので,twitter上での重要事項の議論は控えた方が良いように思われます。
では9条に他国からの侵略を防止する効果がないかというと,あると思います。歴史上,特に現代において,真正面から「地下資源が欲しいです。」「海に通じるルートを確保したいです。」などと明示して侵略行為を開始した国はほとんど存在せず,他国からの脅威などを口実とした防衛行為と称して開始されることが多いといえます。今回のウクライナについてもNATOの脅威やウクライナによる親ロシア人民への広い意味での侵略に対する防衛を口実として侵攻が開始されました。このように侵略者の多くは侵略対象に「侵略者」のレッテルを貼ることで自己の行為を正当化しようとする傾向があります。ここで侵略対象国に9条のような規定が存在する場合,国家として侵略行為を行うことができないことから,「侵略者」のレッテルを貼りにくくなり,その結果として侵略を受けにくくなるという効果はあるといえるでしょう。この点については「9条があっても政権が暴走すれば侵略できてしまう。」との反論もあるでしょうが,それは人の問題であり,国家法規範についての議論を逸脱してしまいます。
9条について国民が興味を持つことは悪いことではありませんが,一時の焦燥感などから一面的な見方で突き進むことは避けなければならないと思います。
これを機会に,しばらく私も憲法9条について考えてみたいと思いました。
投稿者:
2022.02.22
国立大学の前期日程を数日後に控え,国立大学受験生の方々は最後の準備に入っているかと思います。私大進学が決まっている方は,ほっとしていたり,好きな本を読んだりしている方が多いかも知れません。約2週間後には大半の受験生の結果が決まることになります。
最近では漫画等の影響もあり,中学受験が増加するなど,日本における受験熱は高まる一方のように思えます。Youtubeでも東大生や京大生またはそれらの卒業生が多くの動画をアップしている状態です。学習塾の動画も目立ちます。
しかし受験熱が高まる一方で,受験制度の歪みや受験による子どもの精神的苦痛についてはあまりケアされていないように思われます。
受験制度の歪みでいえば,数年前に医学部受験における女子差別が話題になりました。この点については是正され,女子合格率が上がったとの報道がありましたが,想像していたほどの変化は感じられません。他方で毎年のように報道されるのが,東大における学生の男女比です。現在における女子の比率は20%程度らしいのですが,私が在学していた頃に比べると増加したようです。私自身は多様性を重視するなどと言いながら,無理をしてでも男女比を半々にするという指針はおかしいと思っていますが,心から進学を希望する学生のためということで,この点について考えました。
現在の政策では,地方の女子生徒が東京の大学に進学することを実家の親が反対するという構図を前提として,女子だけに安全で綺麗で便利な寮を整備したり,金銭を支給したりといったことが行われているようです。しかし,このような政策は東大合格者の出身校等のデータを無視した的外れな政策のように思われます。現在の東大合格者の多くは都心に近い中高一貫校またはトップ公立校出身者で占められています。地方については大都市の進学校出身者がほとんどであり,性別関係なく東大への進学は狭き門になっています。こういったデータから考えますと,前記のような政策を講じたとしても女子生徒が東大受験をする動機にもならず,受験する女子生徒が増えたとしても男女比を半々にするにはほど遠いことがわかるはずです。
ではどうしたらよいのでしょうか。
近年,私の同期や同年代の知人の子どもが受験をする話を聞くことが増えていますが,その度に思うのは,女子の中学・高校受験が大変だ,ということです。誤解を恐れずに表現すれば,優秀なカテゴリーに含まれるはずの女子が能力に見合う学校教育を受けられていない状態になっていると思われます。原因は複数あると思うのですが,トップ層についていえば,中高一貫の女子校が少ないということがいえると思います。男子については開成や灘を初めとする中高一貫校が都心に限らず地方にもたくさんありますが,女子については都心でも多くはなく,地方にはほとんどないのではないかと思われます。そのため都心の中学受験において女子受験生が一定のラインより下に入ってしまうと,あるべきレベルよりも相当低いレベルの学校に入学しなければならないことになります。その結果,トップ層より少し低いレベルの共学校では同じ学校であるにもかかわらず女子の偏差値が高い,といった現象が発生します。女子の中学受験を経験した親御さんにはご理解いただけると思います。こういった現象が下に向かって順繰りに発生していくと,中堅校あたりで女子の方が大幅に合格最低点が高いという現象になります。報道では中堅校で発生する当該現象を採り上げて男女差別と非難し,中堅校における男女の定員を取り払うべきとの意見が出ています。しかし,この意見は受験制度の歪みの本質をとらえていないとしかいいようがありません。
前述のように,現在における受験制度の歪みは,上位層における中高一貫校の女子の定員が少なすぎることであり,中堅校における合格点の差はその影響にすぎません。つまり中堅校に入学する女子を増やしたところで歪みは改善せず,むしろ歪みが固定され,歪みを促進するおそれすらあります。この歪みを本質的に是正するためには特に中学におけるトップ層の女子の入学者を増加させる必要があります。つまり上位層における中高一貫の女子校を増やす必要があるわけです。
これが実現できれば前記中堅校における差はある程度解消され,東大受験をする女子も効果的に増加するはずです。
国公立の女子校を新たに作ることは平等権との関係で困難であるため,私立に期待するほかありません。国が本気で女子の進学について問題を解決したいのであれば,補助金でも特区でも駆使して私立の中高一貫女子校を増やし,並行して既存の中高一貫の女子校をレベルアップすることも考えるべきではないでしょうか。
色々と述べましたが,このトピックについては持っておいていただきたい視点があります。受験における性別に基づく差異については平等の視点から語られることが多いですが,単純な性別間の平等だけが問題なのではないということです。つまり,前記のように現代における受験制度の歪みの本質は,ある能力を有している女子学生が希望する水準の教育を受けられていない,ということです。憲法は教育を受ける権利を保障していますが,「その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。」と規定しています。前記の受験制度の歪みは同規定の趣旨に反する可能性があり,一定の女子学生の学習権が侵害されていると評価し得ることついても考えていただきたいと思います。また女子学生に限らず,男子学生の中にも能力に見合った教育を受けられない子らが存在し,その子らに対する配慮も必要であることを忘れないでいただきたいと思います。
投稿者:
2022.02.19
受験シーズン真っ盛りですが,高校2年生の方々は文系・理系の進路選択に迫られている時期ではないかと思います。
私は高校時代に文系・理系選択で混乱した行動を採った経験があります。私は当初,医学部志望であったため,理系選択(物理・化学・地理)を学校に提出しました。社会はセンター試験でしか使わないと考えていたので,あまり勉強していませんでした。しかし親から「国公立であっても6年間の学費が払えない」ということを告げられ,医学部志望を断念し,文系に変更しました。そのまま理系に進まなかった理由は,理系に進学した場合,大学院に進学する必要があり,結局学費が支払えない見通しが強かったことや,医学部でないなら薬学部,理工学部,といった感覚に違和感があったためです。文系として受験したのは日本史・世界史・生物です。一科目も重複していないのは今考えてもおかしいと思います。
このようなケースでは数学や理科が苦手で文転したと思われがちですが,そうではありません。私は理系科目の方が成績が良く,苦手な科目はありませんでした。これに対して文系科目の特に歴史が苦手であり,東大文系学部受験に社会が2科目必要であることを知った際には絶望しました。地理は学校で開講されなかったので選択できませんでした。そんな私でも東大文Ⅰに合格できたので,文系科目が苦手でも,やり方次第で文系学部進学は可能ということだと思います。
これに対して理系科目が苦手である場合の理系学部進学は困難を極めるイメージがあります。工学部,物理学,数学といった分野に理系科目が苦手でも進学したいという人はいないと思うので,問題となるのは医歯薬農学部,特に医学部でしょうか。最近では数学などを受験科目としない医学部もあるようなので,どうしても,という方はそういった大学を探してみてはいかがかと思います。医学に数学や物理学は必要ないではないか,と考える方も多いともいます。医学部において数学や物理学が必修化されるなど重視され始めた流れは,私の記憶が確かなら,利根川進氏がノーベル賞を受賞した際に,生物学,化学,医学的なアプローチではなく物理学や数学的な解析アプローチを重視していたような情報があったことから広まったように思います。間違っていたら申し訳ございません。確かにDNAの構造や分子構造といった超ミクロの世界を映像化し,構造を研究できるようになった現在においては物理学や数学的解析が生きるというのはその通りかも知れません。しかしながら,これらのアプローチは基礎研究を前提としており,それ以外の臨床医学等の重要性が無視されているように感じます。医師の多くは患者を相手に治療を行うのであり,必ずしも数学的,物理学的アプローチを必要としません。数学や物理が苦手でありながら医学の才を持つ人はいると思います。多様性が重視される昨今,医学部受験においても数学や物理学を苦手とする方の道を封じない策を採っていただきたいと思います。
医学部の話ばかりしてしまいましたが,今後,大学においては受験の段階で文系・理系を完全に分けない方向に向かうと思われます。理由はいずれ述べたいと思います。そういった時代の到来に備えて,また将来,色々な選択ができるように,受験生の方々は好き嫌いせず,幅広く基礎的な勉強をしてほしいと思います。
投稿者:
2022.02.11
受験シーズンに突入しています。受験生の皆様には自分の力を発揮していただきたいと思います。
とはいえ今年の大学受験では共通テストの段階で受験生を不安にさせる事件がいくつも起こっています。共通テストの会場で刺傷事件が発生し,スマートフォンを使用したカンニングが発生し,数学ⅠAは前代未聞の難易度で多くの受験生のメンタルを壊しました。
数学ⅠAについては,あまりに話題になっているため,問題を拝見しました。私は受験で数学を利用していたので過去のセンター試験などの傾向は理解しておりますが,印象としては「難易度調整のミスかな?」という感じでした。少なくとも時間内に解くことは無理だろう印象です。とはいえ,全受験生にとって難しかったということなので,冷静に得点分布などを分析して,過剰に弱気にならないようにしていただきたいと思います。
スマートフォンを使用したカンニングについては氷山の一角で,スマートフォンを使用した類似の事案は多発していると思います。話は逸れますが,youtube動画などで「チート」という言葉が普及した現在では,「カンニング」も「チーティング」に変えていった方が良いのではないでしょうか。それはさておき,このニュースで私が理解できなかったのが,カンニングをした学生が東京の私大文系を目指していたという情報です。私のイメージでは,私大文系の受験生は,共通テストを受験しないのではないか,受験するとしても,そこまで必死に受験する必要がないのではないか,といった感じです。現在は私大文系の共通テスト利用が多いのでしょうか。カンニングをして多少の得点を上げるよりも,私大文系の一般受験を頑張った方がコストパフォーマンスが良いのではないかと疑問に思いました。
共通テスト会場での刺傷事件については,ついにここまで来たか,という印象です。2019年5月30日付けブログの記事で私は,貧困から満足な教育が受けられない子どもだけではなく,ありがた迷惑な押しつけ教育・受験に苦しむ子どものケアが必要であることを主張しました。当時から2年半,コロナウイルス感染拡大による社会の閉塞感を経て,歪みが明らかになった感があります。Youtubeを初めとする動画の普及やテレビ番組での高学歴カテゴリーの流行により,より広い層の方々の間で,昔よりも高学歴(特に東大や医学部)ブランドに対する執着が強くなってきたように思います。執着しているのは主に親ですが,受験をする子においても,東大や医学部に入学できなければ人生が終わってしまうような強迫観念にとらわれているように見えます。しかし彼らが執着しているのはあくまで「ブランド」であり,中身が伴っている印象はありません。25年前に大学受験を経験した私からすると,このような思考はもったいないと思います。私から言わせてもらえば,現代の子どもたちは,海外の大学を含めた広い視野で進学を検討してもよいと思います。私が子どもの頃は,親が海外で働いていた等の特殊な事情がない限り,海外の大学に進学するといった選択肢は皆無であり,あり得ないものでした。また政府,マスコミの偏向もあると思いますが,外国の情報といえばアメリカの情報くらいしか得られませんでした。しかし現在では海外にインターネットで容易につながることができ,情報を得ることができるようになりました。このような環境を利用しないことは,私からすればあり得ません。ある程度の学力がありながら,日本の受験になじめない子がいたら,少し視野を広げて世界の大学の情報を調べてみることをお勧めします。もちろん海外の大学に進学しなくてもよいのであり,世界の広さと,日本の大学より良い大学がたくさんあることを知ってほしいと思います。そして狭矮な受験制度の中にうずもれ,悩んで,自分を壊すべきでない,と気付いてほしいと思います。
投稿者:
2022.01.08
まだ到来していないが,これから到来するであろう時点のことを「将来」とか「未来」と表現します。意味の違いとしては,「将来」は比較的近い時期を指し,「未来」は遠い時期を指すようです。
「将来は野球選手になりたい。」とは言いますが,この場合に「未来」とは言いません。このことから「将来」は「将に来たらんとする時点」という到来することに重点を置いたものであり,「未来」は「未だ到来していない時点」という到来していないことに重点を置いたものであるということであろうと推測されます。
そのような意味で日本の将来という言葉があるとすれば,それはあまり期待ができない状態であると言わざるを得ません。バブル崩壊後,ほぼ定期的に大災害と金融危機の影響を受け,日本は低迷を脱することができていません。そして低迷に加えて少子高齢化が進み,財政も逼迫しています。この流れは私が大学在学中から言われていたことであり,財政改革,構造改革が叫ばれ続けましたが,どのように改革されたか,改革の成果があったか否かはエコノミストですら述べていません。経済上はミクロの存在である国民から見ると,働いても収入は増えず,収入が増えると税金が増え,補助金が減り,むしろ家計が逼迫するというジレンマを抱えている状態です。これに加えてコロナウイルスの感染拡大により収入は増えず,さらには食料品・加工品の一斉値上げが実施され,どうやっても生活が楽になることはないというのが実感ではないでしょうか。こうなってしまった個別の原因は,個人的には法人に甘く個人に厳しい税制と円安誘導を含む金融緩和政策の綻びにあると考えています。政府は国民に対してお金を使え,消費しろ,と言いながら,老後のために貯蓄,投資せよ,と矛盾したことを堂々と言っているので,経済に詳しくない者でも効果が出ないことは予想が付きます。
国民としては将来の日本をどのように受け止めればよいのでしょうか。事実として冷静に見れば,日本は貧しい国になりつつあるということを,国民が自覚しなければならないのではないでしょうか。現在は一部の政治家や経済評論家らしき方が,国債の発行を際限なくできるかのような主張を始めています。酷い場合には,「日本が紙幣を刷れば返せる」といった趣旨の発言すら見かけることがあります。紙幣を発行するのは日本銀行ですが,いずれにしろ誤った主張であることは明らかです。こういった主張・認識の元に際限ない国債発行が続けられれば将来か,未来か,いずれかはわかりませんが,破綻が見えてきます。
日本の将来を悲観的に受け止めたとして,国民はどうすればよいのでしょうか。前記のように厳しい税制等を嫌って海外に移住する富裕層は増加しています。しかし多くの国民は移住することができません。現状の中で得られるものを最大限に得て,失うものを最小限にするしかありません。労働者であれば残業代の請求や有給休暇の取得といった細かいことから始めることになるでしょう。そして職場環境の改善を労働者側が協力して推し進める必要もあるでしょう。こういった点については労働組合が媒介となって進められるはずですが,現在はあまり具体的な行動が見えてこないので,改善が必要な点になるかも知れません。他方でフリーランスという言葉が最近頻繁に使用されるようになっていますが,要するに個人事業主ということでしょうか。弁護士も含めた個人事業主は年金や退職金がなく,自分が倒れたら全てが終わってしまうため,体と心をケアしつつ,貯蓄に注力する他ありません。家庭に目を向けると,専業主婦という言葉は先進国のように消えてゆくものであると考えていましたが,旧体制のままジレンマに嵌まってしまった日本においては同じようにはならないかもしれません。あまりに厳しい労働環境・雇用環境が改善されない限り,共働きで夫婦(内縁,同姓も含む)ともども肉体的,精神的に疲弊するのでは家庭が回らないということで一方ができ得る限り働き,他方ができ得る限り家事をしつつ働くパートナーを肉体的・精神的にケアするという分業は合理的であると見直される可能性もあります。
暗い話ばかりになってしまいましたが,日本の低迷がしばらくつづくことは間違いないので,甘い見通しで生活することはできません。お子様方には日本国内に拘ることなく,海外での生活も含めて,広い視野で生き方を考える必要が出てきたのかもしれません。
私が子どもの頃に見据えていた「将来」はとっくに過ぎ去りました。とすると私が生きる現在は,子どもの頃の私にとっての「未来」ということになるのでしょう。確かに私が子どもの頃に想像していたものとは全く異なる日本と世界が目の前にあります。未来が予想できないことはわかっていました。日本がこのようになるとは予想していませんでした。しかし,予想できなかった未来である現在において,さらにその先の未来に多少の期待を持ってしまうことも事実です。それを希望というならば,人間は希望を持っていなければ生きられないのではなく,人間は生きていれば希望を持ってしまう生き物なのだと思います。
希望を持って今年も頑張りましょう,と言いたいところですが,正確には,生きていれば希望はあるので今年も頑張りましょう,ということになりそうです。
投稿者: