弁護士ブログ

憲法9条と戦争

2022.03.18

 ロシアによるウクライナの侵攻があって以降,憲法9条に関する議論をすべきとの意見が見受けられます。それらの意見の大多数は,9条についての理解に基づいておらず,大国による侵攻を目の当たりにして焦った末の行動か,今回の事態をチャンスとみて自分の意見を通そうとしているもののように思われます。つまり9条改正が必要かについて,あまり深くは考えられていないように見受けられるということです。

 少し前まで,政府も9条改正を訴えていました。改正が必要な理由として政府は,「自衛隊の合憲性の問題に終止符を打つ」といったことを述べたと記憶しています。しかし自民党を基盤とする歴代政府の立場は,自衛隊を「合憲」とするものです。近時の政府も自民党を基盤としていることから,自衛隊を「合憲」とする立場かと思います。そして自衛隊が合憲である以上,9条の改正は必要ないはずです。

 それでも改正が必要な理由は何でしょう。この点について考え得る説明は「自衛隊関連法案の審議の度に自衛隊の合憲性が問題となり,法案審議が円滑に進まないから」といったものが考えられます。しかし,憲法は国家の基本法であり,9条はその中でも3大主義の一つを構成する根本的理念です。そのような重要な条文を法案審議の円滑化といった理由で改正することは説得力がないように思われます。

 おそらく政府与党による近時の立法及び将来の立法を考えると,従来の政府解釈でも自衛隊等についての正当化が苦しいことを政府自身が認識しているのだと思います。

 そもそも憲法は自衛隊のような組織を日本国が保有することを認めていないのでしょうか。

 9条の解釈について,いわゆる通説は,侵略戦争に限らず自衛戦争も放棄しており,戦力不保持の範囲も限定しないというものですから,通説に従えば自衛隊は違憲になりそうです。

 通説の他にも複数の説が存在するのですが,自衛隊については違憲とするものが大多数と思われます。

 このように述べると,「そんなはずはない」,「弁護士はおかしい」,「憲法学者はおかしい」といった声が飛んできます。しかし,理屈としてはそうなのです。

 とはいえ,戦争を放棄し,戦力を保持しないと規定する日本国憲法が自国の安全をどのようにして保障するつもりだったのか,という疑問が湧くのも当然だと思います。

 この問いに対し,憲法前文は以下のように答えます(宮澤俊義「全訂日本国憲法」参照)。

 「日本国民は,・・・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 つまり他国が戦争を起こさないと信頼することで自国の安全を保障するということです。

 さらにこの点については,清宮四郎先生の「憲法Ⅰ」において以下のように書かれています。

 「非常な決意のもとに,あらゆる戦争を放棄し,一切の戦力を保持しないことにした。その結果,自国の安全と生存を諸外国民の公正と信義にゆだねることになるが,それは覚悟のうえである,というのである。」

 つまり,日本は他国から侵攻される危険に晒されるけれども,それはわかった上で敢えて戦争や武力を放棄した,ということです。

 このような日本国憲法の決意,理念は,全ての国家が軍を保有していると言っても良い世界情勢においてはドラスティックといえます。理解に苦しむという意見があってもおかしくはありません。

 日本がこのように「非常な決意」をした背景には,第二次世界大戦,太平洋戦争における悲惨な経験を通じて,二度と戦争をしたくないと国民の誰もが考えたという歴史があります。

 前掲「憲法Ⅰ」にも以下のように書かれています。

 「この憲法で,極めて徹底した戦争の放棄・軍備の撤廃という,世界史上画期的なくわだてをあえてしたが,それは,単に国をあげての大戦争に敗れ,ポツダム宣言を受諾した結果,やむをえないものと認めたからではない。冷静に過去の行為を反省するとともに,国家・人類の将来進むべき道を考察してみた場合,そこに自ずから恒久平和の念願が湧きいで,また,人間相互の関係を支配する崇高な理想-友愛・協和-を深く自覚するに至ったからである。」

 「世界史上画期的」とあるように,日本国憲法は世界に類を見ない究極的な平和主義を標榜していると言っても過言ではありません。

 このような究極的な平和主義に対しては,軍隊を保有する国家に囲まれている現状においては現実的でないという意見があると思います。そのような意見を否定するつもりはありません。しかし,日本国憲法が悲壮ともいえる決意を表明するほどに戦争というものは醜悪,有害なものなのだということを感じ取るべきではないでしょうか。戦争を簡単に表現するならば,「見ず知らずの人間どうしの殺しあい」です。そして大義を語って戦争を慫慂する人々は,安全な位置から醜い殺しあいを眺めているだけなのです。

 もし9条を改正して日本が戦争をできる国にする場合,その改正が意味することは,自分が,自分の子どもが,自分の愛する人が,自分を愛してくれる人が戦争に行って醜い殺し合いをすること,ひいては殺されることを認めるということです。

 9条改正の議論は,自分が戦争に行くことはないとたかをくくっている人々に任せてはいけません。自分のこととして,自分の愛する人のこととして考えていただきたいと願います。

投稿者:河野邦広法律事務所

憲法9条の基礎知識

2022.03.05

 ロシアによるウクライナ侵攻により,憲法9条に関する論争が急激に増えているように思います。

 憲法第9条というと漠然と「戦争を放棄している」「軍隊を持てない(けれど自衛隊は持てる?)」くらいに理解されている方も多いのではないでしょうか。それでも一般的な理解としては充分なのですが,9条の存在意義や改正議論を適格に論じるためには補充が必要です。

 そこで今回は9条の難しい用語を中高生でも理解できるように解説してみたいと思います。

 まずは条文を見てみましょう。

 9条は2つの項で構成されています。

 1項 日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。

 2項 前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。

 下線部の用語を順に説明します。

⑴ 「国権の発動たる戦争」

 「国権の発動たる戦争」は「戦争」と同じ意味とされています。

 では「戦争」とは何でしょうか。

 「戦争」とは,簡単に表現すれば「戦争を始めます」という意思が表明されて(宣戦布告),皆さんが考える戦闘状態が始まることです。一般的には,宣戦布告に伴って戦時国際法規が適用されることになります。

 では国が「戦争を始めます」と言わなければ「戦争」にあたらず,憲法で禁止されないということでしょうか。この点は次の項で述べます。

⑵ 「武力による威嚇又は武力の行使」

 前記⑴の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」は異なるのでしょうか。

ア 「武力の行使」

 条文上の順番とは異なりますが,先に「武力の行使」について説明します。

 結論から言うと,「武力の行使」は宣戦布告なしに行われる事実上の戦争を含むとされます。先ほどの「戦争」の定義から,宣戦布告がない場合には「戦争」にはあたらないことになりますが,その場合には「武力の行使」にあたるため,禁止されます。

 日本が歴史上,「武力の行使」をした例としては満州事変や日中戦争があります。

イ 「武力による威嚇」

 「武力による威嚇」がまだ戦争の状態でないことは何となくわかると思います。その上で「武力による威嚇」とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。

 「武力による威嚇」とは,「他国に対して,こちらの要求を受け入れなければ,武力に訴えてその主張を通すという意志を示して,その他国を脅かすこと」とされます。

 日本は過去に他国から「武力による威嚇」を受けたことがあり,反対に他国に対して「武力による威嚇」を行ったこともあります。

 日本が「武力による威嚇」を受けた例が「三国干渉」です。「三国干渉」とは1895年4月,フランス,ドイツ,ロシアが日本に対して武力を背景にして遼東半島を返還するよう要求した事件です。

 日本が「武力による威嚇」を行った例が「対華二十一か条要求」です。「対華二十一か条要求」とは,1915年5月,日本が中華民国に対して武力を背景にして21個の要求をした事件です。

⑶ 「陸海空軍その他の戦力」

 「戦力」については,その解釈が最も問題になります。

 「戦力」の意義と自衛隊の存在の相克が現在の9条論争の中心ともいえます。

ア 学説の解釈

 学説は「戦力」について広く解釈するものがほとんどです。

 「戦力」を最も広く解釈すると,「戦争に役立つ可能性のある一切の潜在的能力」となりますが,この場合航空機なども「戦力」にあたることになってしまいます。

 「戦力」についての通説の解釈は「軍隊および有事の際にそれに転化しうる程度の実力部隊」とします。この場合,自衛隊は「戦力」にあたることになります。

イ 政府の解釈

 これに対して政府は「戦力」について,かなり狭く解釈します。

 政府による公定解釈は,「自衛のための必要最小限度の実力」というものです。

 この定義は具体的にどの程度であれば「戦力」にあたらないかがよくわかりません。この点について政府は「他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できない」と説明しています。この説明を聞いて,皆さんは現在の自衛隊が「戦力」にあたると考えるでしょうか。それともあたらないと考えるでしょうか。

⑷ 「国の交戦権」

 「国の交戦権」の意義については2つの解釈があり,一つは「国家が戦争を行う権利」とし,もう一つは「国家が交戦国として国際法上認められている各種の権利の総体」とします。

 いずれの解釈を採ったにしろ,1項と2項の関係または存在意義の説明が難しいとされているようです。

 以上で憲法第9条の基本的な用語の説明ができました。

 憲法第9条の解釈については,結論として自衛隊を保持することが違憲であるという点では大多数が一致しているようですが,細かい解釈については項を跨いで考えなければならないなど難解な問題が複数存在します。とりあえずは上記のような基本的な意味を押さえた上で,憲法は平和主義を採用していることと,憲法第9条の解釈においても原理・原則から離れないことを意識できれば充分ではないでしょうか。

参考文献:全訂日本国憲法(日本評論社)

投稿者:河野邦広法律事務所

侵略行為と憲法9条

2022.02.25

 2022年2月24日,ロシアがウクライナに侵攻したとの報道がありました。

 これにともない日本のtwitterでは侵攻を非難する内容が多数投稿されるとともに,なぜか憲法9条に対する八つ当たりのような内容が見受けられます。例えば「9条で戦争を止められるなら,ウクライナに行って戦争を止めてこい!」といった趣旨の内容です。少し冷静さと理性を欠く内容と思われます。読む側も,こういった投稿に流されないようにしていただきたいと思います。

 一般国民であれば多少の逸脱も理解できなくはないのですが,国会議員も冷静さを欠いた議論を始めているようです。予め申し上げますと,私は以下の議論のいずれにも賛成する立場ではありませんことを前提にお読み下さい。また全ての流れを見たわけではないので,誤っていたら申し訳ありません。概ねの流れとしては,ある国会議員Aが「侵略行為をするようなリーダーが選ばれても国家として侵略行為ができないようにするのが憲法第9条である。」という趣旨の発言をしたのに対して,他の国会議員Bが「それでは他国のための9条になる。9条によっても他国からの侵略は防止できない。」と反論したとのことです。この議論は噛み合っていないように思われます。Aの発言は「憲法9条のような規定を持つ国家による侵略行為が防止される」ということにとどまるのですが,なぜかBの反論はそこから「他国が侵略してくる」という話になっています。Aは侵略行為を非難する立場から,自国による他国に対する侵略行為を防止する手段としての9条の話をしているのに対して,Bは国防の見地から,他国による自国に対する侵略行為を防止する手段としての9条の話をしています。前提が共有されていないため,いくら議論しても噛み合わないのだと思われます。どちらが正しいということではなく,混乱を避けるため議論自体をしない方が良いのではないでしょうか。以前も述べましたが,twitterは文字数が限られているため,複雑な議論には向きませんので,twitter上での重要事項の議論は控えた方が良いように思われます。

 では9条に他国からの侵略を防止する効果がないかというと,あると思います。歴史上,特に現代において,真正面から「地下資源が欲しいです。」「海に通じるルートを確保したいです。」などと明示して侵略行為を開始した国はほとんど存在せず,他国からの脅威などを口実とした防衛行為と称して開始されることが多いといえます。今回のウクライナについてもNATOの脅威やウクライナによる親ロシア人民への広い意味での侵略に対する防衛を口実として侵攻が開始されました。このように侵略者の多くは侵略対象に「侵略者」のレッテルを貼ることで自己の行為を正当化しようとする傾向があります。ここで侵略対象国に9条のような規定が存在する場合,国家として侵略行為を行うことができないことから,「侵略者」のレッテルを貼りにくくなり,その結果として侵略を受けにくくなるという効果はあるといえるでしょう。この点については「9条があっても政権が暴走すれば侵略できてしまう。」との反論もあるでしょうが,それは人の問題であり,国家法規範についての議論を逸脱してしまいます。

 9条について国民が興味を持つことは悪いことではありませんが,一時の焦燥感などから一面的な見方で突き進むことは避けなければならないと思います。

 これを機会に,しばらく私も憲法9条について考えてみたいと思いました。

投稿者:河野邦広法律事務所

彷徨う女子受験生

2022.02.22

 国立大学の前期日程を数日後に控え,国立大学受験生の方々は最後の準備に入っているかと思います。私大進学が決まっている方は,ほっとしていたり,好きな本を読んだりしている方が多いかも知れません。約2週間後には大半の受験生の結果が決まることになります。

 最近では漫画等の影響もあり,中学受験が増加するなど,日本における受験熱は高まる一方のように思えます。Youtubeでも東大生や京大生またはそれらの卒業生が多くの動画をアップしている状態です。学習塾の動画も目立ちます。

 しかし受験熱が高まる一方で,受験制度の歪みや受験による子どもの精神的苦痛についてはあまりケアされていないように思われます。

 受験制度の歪みでいえば,数年前に医学部受験における女子差別が話題になりました。この点については是正され,女子合格率が上がったとの報道がありましたが,想像していたほどの変化は感じられません。他方で毎年のように報道されるのが,東大における学生の男女比です。現在における女子の比率は20%程度らしいのですが,私が在学していた頃に比べると増加したようです。私自身は多様性を重視するなどと言いながら,無理をしてでも男女比を半々にするという指針はおかしいと思っていますが,心から進学を希望する学生のためということで,この点について考えました。

 現在の政策では,地方の女子生徒が東京の大学に進学することを実家の親が反対するという構図を前提として,女子だけに安全で綺麗で便利な寮を整備したり,金銭を支給したりといったことが行われているようです。しかし,このような政策は東大合格者の出身校等のデータを無視した的外れな政策のように思われます。現在の東大合格者の多くは都心に近い中高一貫校またはトップ公立校出身者で占められています。地方については大都市の進学校出身者がほとんどであり,性別関係なく東大への進学は狭き門になっています。こういったデータから考えますと,前記のような政策を講じたとしても女子生徒が東大受験をする動機にもならず,受験する女子生徒が増えたとしても男女比を半々にするにはほど遠いことがわかるはずです。

 ではどうしたらよいのでしょうか。

 近年,私の同期や同年代の知人の子どもが受験をする話を聞くことが増えていますが,その度に思うのは,女子の中学・高校受験が大変だ,ということです。誤解を恐れずに表現すれば,優秀なカテゴリーに含まれるはずの女子が能力に見合う学校教育を受けられていない状態になっていると思われます。原因は複数あると思うのですが,トップ層についていえば,中高一貫の女子校が少ないということがいえると思います。男子については開成や灘を初めとする中高一貫校が都心に限らず地方にもたくさんありますが,女子については都心でも多くはなく,地方にはほとんどないのではないかと思われます。そのため都心の中学受験において女子受験生が一定のラインより下に入ってしまうと,あるべきレベルよりも相当低いレベルの学校に入学しなければならないことになります。その結果,トップ層より少し低いレベルの共学校では同じ学校であるにもかかわらず女子の偏差値が高い,といった現象が発生します。女子の中学受験を経験した親御さんにはご理解いただけると思います。こういった現象が下に向かって順繰りに発生していくと,中堅校あたりで女子の方が大幅に合格最低点が高いという現象になります。報道では中堅校で発生する当該現象を採り上げて男女差別と非難し,中堅校における男女の定員を取り払うべきとの意見が出ています。しかし,この意見は受験制度の歪みの本質をとらえていないとしかいいようがありません。

 前述のように,現在における受験制度の歪みは,上位層における中高一貫校の女子の定員が少なすぎることであり,中堅校における合格点の差はその影響にすぎません。つまり中堅校に入学する女子を増やしたところで歪みは改善せず,むしろ歪みが固定され,歪みを促進するおそれすらあります。この歪みを本質的に是正するためには特に中学におけるトップ層の女子の入学者を増加させる必要があります。つまり上位層における中高一貫の女子校を増やす必要があるわけです。

 これが実現できれば前記中堅校における差はある程度解消され,東大受験をする女子も効果的に増加するはずです。

 国公立の女子校を新たに作ることは平等権との関係で困難であるため,私立に期待するほかありません。国が本気で女子の進学について問題を解決したいのであれば,補助金でも特区でも駆使して私立の中高一貫女子校を増やし,並行して既存の中高一貫の女子校をレベルアップすることも考えるべきではないでしょうか。

 色々と述べましたが,このトピックについては持っておいていただきたい視点があります。受験における性別に基づく差異については平等の視点から語られることが多いですが,単純な性別間の平等だけが問題なのではないということです。つまり,前記のように現代における受験制度の歪みの本質は,ある能力を有している女子学生が希望する水準の教育を受けられていない,ということです。憲法は教育を受ける権利を保障していますが,「その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。」と規定しています。前記の受験制度の歪みは同規定の趣旨に反する可能性があり,一定の女子学生の学習権が侵害されていると評価し得ることついても考えていただきたいと思います。また女子学生に限らず,男子学生の中にも能力に見合った教育を受けられない子らが存在し,その子らに対する配慮も必要であることを忘れないでいただきたいと思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

文系・理系選択?

2022.02.19

 受験シーズン真っ盛りですが,高校2年生の方々は文系・理系の進路選択に迫られている時期ではないかと思います。

 私は高校時代に文系・理系選択で混乱した行動を採った経験があります。私は当初,医学部志望であったため,理系選択(物理・化学・地理)を学校に提出しました。社会はセンター試験でしか使わないと考えていたので,あまり勉強していませんでした。しかし親から「国公立であっても6年間の学費が払えない」ということを告げられ,医学部志望を断念し,文系に変更しました。そのまま理系に進まなかった理由は,理系に進学した場合,大学院に進学する必要があり,結局学費が支払えない見通しが強かったことや,医学部でないなら薬学部,理工学部,といった感覚に違和感があったためです。文系として受験したのは日本史・世界史・生物です。一科目も重複していないのは今考えてもおかしいと思います。

 このようなケースでは数学や理科が苦手で文転したと思われがちですが,そうではありません。私は理系科目の方が成績が良く,苦手な科目はありませんでした。これに対して文系科目の特に歴史が苦手であり,東大文系学部受験に社会が2科目必要であることを知った際には絶望しました。地理は学校で開講されなかったので選択できませんでした。そんな私でも東大文Ⅰに合格できたので,文系科目が苦手でも,やり方次第で文系学部進学は可能ということだと思います。

 これに対して理系科目が苦手である場合の理系学部進学は困難を極めるイメージがあります。工学部,物理学,数学といった分野に理系科目が苦手でも進学したいという人はいないと思うので,問題となるのは医歯薬農学部,特に医学部でしょうか。最近では数学などを受験科目としない医学部もあるようなので,どうしても,という方はそういった大学を探してみてはいかがかと思います。医学に数学や物理学は必要ないではないか,と考える方も多いともいます。医学部において数学や物理学が必修化されるなど重視され始めた流れは,私の記憶が確かなら,利根川進氏がノーベル賞を受賞した際に,生物学,化学,医学的なアプローチではなく物理学や数学的な解析アプローチを重視していたような情報があったことから広まったように思います。間違っていたら申し訳ございません。確かにDNAの構造や分子構造といった超ミクロの世界を映像化し,構造を研究できるようになった現在においては物理学や数学的解析が生きるというのはその通りかも知れません。しかしながら,これらのアプローチは基礎研究を前提としており,それ以外の臨床医学等の重要性が無視されているように感じます。医師の多くは患者を相手に治療を行うのであり,必ずしも数学的,物理学的アプローチを必要としません。数学や物理が苦手でありながら医学の才を持つ人はいると思います。多様性が重視される昨今,医学部受験においても数学や物理学を苦手とする方の道を封じない策を採っていただきたいと思います。

 医学部の話ばかりしてしまいましたが,今後,大学においては受験の段階で文系・理系を完全に分けない方向に向かうと思われます。理由はいずれ述べたいと思います。そういった時代の到来に備えて,また将来,色々な選択ができるように,受験生の方々は好き嫌いせず,幅広く基礎的な勉強をしてほしいと思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

苦しめられる受験生

2022.02.11

 受験シーズンに突入しています。受験生の皆様には自分の力を発揮していただきたいと思います。

 とはいえ今年の大学受験では共通テストの段階で受験生を不安にさせる事件がいくつも起こっています。共通テストの会場で刺傷事件が発生し,スマートフォンを使用したカンニングが発生し,数学ⅠAは前代未聞の難易度で多くの受験生のメンタルを壊しました。

 数学ⅠAについては,あまりに話題になっているため,問題を拝見しました。私は受験で数学を利用していたので過去のセンター試験などの傾向は理解しておりますが,印象としては「難易度調整のミスかな?」という感じでした。少なくとも時間内に解くことは無理だろう印象です。とはいえ,全受験生にとって難しかったということなので,冷静に得点分布などを分析して,過剰に弱気にならないようにしていただきたいと思います。

 スマートフォンを使用したカンニングについては氷山の一角で,スマートフォンを使用した類似の事案は多発していると思います。話は逸れますが,youtube動画などで「チート」という言葉が普及した現在では,「カンニング」も「チーティング」に変えていった方が良いのではないでしょうか。それはさておき,このニュースで私が理解できなかったのが,カンニングをした学生が東京の私大文系を目指していたという情報です。私のイメージでは,私大文系の受験生は,共通テストを受験しないのではないか,受験するとしても,そこまで必死に受験する必要がないのではないか,といった感じです。現在は私大文系の共通テスト利用が多いのでしょうか。カンニングをして多少の得点を上げるよりも,私大文系の一般受験を頑張った方がコストパフォーマンスが良いのではないかと疑問に思いました。

 共通テスト会場での刺傷事件については,ついにここまで来たか,という印象です。2019年5月30日付けブログの記事で私は,貧困から満足な教育が受けられない子どもだけではなく,ありがた迷惑な押しつけ教育・受験に苦しむ子どものケアが必要であることを主張しました。当時から2年半,コロナウイルス感染拡大による社会の閉塞感を経て,歪みが明らかになった感があります。Youtubeを初めとする動画の普及やテレビ番組での高学歴カテゴリーの流行により,より広い層の方々の間で,昔よりも高学歴(特に東大や医学部)ブランドに対する執着が強くなってきたように思います。執着しているのは主に親ですが,受験をする子においても,東大や医学部に入学できなければ人生が終わってしまうような強迫観念にとらわれているように見えます。しかし彼らが執着しているのはあくまで「ブランド」であり,中身が伴っている印象はありません。25年前に大学受験を経験した私からすると,このような思考はもったいないと思います。私から言わせてもらえば,現代の子どもたちは,海外の大学を含めた広い視野で進学を検討してもよいと思います。私が子どもの頃は,親が海外で働いていた等の特殊な事情がない限り,海外の大学に進学するといった選択肢は皆無であり,あり得ないものでした。また政府,マスコミの偏向もあると思いますが,外国の情報といえばアメリカの情報くらいしか得られませんでした。しかし現在では海外にインターネットで容易につながることができ,情報を得ることができるようになりました。このような環境を利用しないことは,私からすればあり得ません。ある程度の学力がありながら,日本の受験になじめない子がいたら,少し視野を広げて世界の大学の情報を調べてみることをお勧めします。もちろん海外の大学に進学しなくてもよいのであり,世界の広さと,日本の大学より良い大学がたくさんあることを知ってほしいと思います。そして狭矮な受験制度の中にうずもれ,悩んで,自分を壊すべきでない,と気付いてほしいと思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

将来と未来

2022.01.08

 まだ到来していないが,これから到来するであろう時点のことを「将来」とか「未来」と表現します。意味の違いとしては,「将来」は比較的近い時期を指し,「未来」は遠い時期を指すようです。

 「将来は野球選手になりたい。」とは言いますが,この場合に「未来」とは言いません。このことから「将来」は「将に来たらんとする時点」という到来することに重点を置いたものであり,「未来」は「未だ到来していない時点」という到来していないことに重点を置いたものであるということであろうと推測されます。

 そのような意味で日本の将来という言葉があるとすれば,それはあまり期待ができない状態であると言わざるを得ません。バブル崩壊後,ほぼ定期的に大災害と金融危機の影響を受け,日本は低迷を脱することができていません。そして低迷に加えて少子高齢化が進み,財政も逼迫しています。この流れは私が大学在学中から言われていたことであり,財政改革,構造改革が叫ばれ続けましたが,どのように改革されたか,改革の成果があったか否かはエコノミストですら述べていません。経済上はミクロの存在である国民から見ると,働いても収入は増えず,収入が増えると税金が増え,補助金が減り,むしろ家計が逼迫するというジレンマを抱えている状態です。これに加えてコロナウイルスの感染拡大により収入は増えず,さらには食料品・加工品の一斉値上げが実施され,どうやっても生活が楽になることはないというのが実感ではないでしょうか。こうなってしまった個別の原因は,個人的には法人に甘く個人に厳しい税制と円安誘導を含む金融緩和政策の綻びにあると考えています。政府は国民に対してお金を使え,消費しろ,と言いながら,老後のために貯蓄,投資せよ,と矛盾したことを堂々と言っているので,経済に詳しくない者でも効果が出ないことは予想が付きます。

 国民としては将来の日本をどのように受け止めればよいのでしょうか。事実として冷静に見れば,日本は貧しい国になりつつあるということを,国民が自覚しなければならないのではないでしょうか。現在は一部の政治家や経済評論家らしき方が,国債の発行を際限なくできるかのような主張を始めています。酷い場合には,「日本が紙幣を刷れば返せる」といった趣旨の発言すら見かけることがあります。紙幣を発行するのは日本銀行ですが,いずれにしろ誤った主張であることは明らかです。こういった主張・認識の元に際限ない国債発行が続けられれば将来か,未来か,いずれかはわかりませんが,破綻が見えてきます。

 日本の将来を悲観的に受け止めたとして,国民はどうすればよいのでしょうか。前記のように厳しい税制等を嫌って海外に移住する富裕層は増加しています。しかし多くの国民は移住することができません。現状の中で得られるものを最大限に得て,失うものを最小限にするしかありません。労働者であれば残業代の請求や有給休暇の取得といった細かいことから始めることになるでしょう。そして職場環境の改善を労働者側が協力して推し進める必要もあるでしょう。こういった点については労働組合が媒介となって進められるはずですが,現在はあまり具体的な行動が見えてこないので,改善が必要な点になるかも知れません。他方でフリーランスという言葉が最近頻繁に使用されるようになっていますが,要するに個人事業主ということでしょうか。弁護士も含めた個人事業主は年金や退職金がなく,自分が倒れたら全てが終わってしまうため,体と心をケアしつつ,貯蓄に注力する他ありません。家庭に目を向けると,専業主婦という言葉は先進国のように消えてゆくものであると考えていましたが,旧体制のままジレンマに嵌まってしまった日本においては同じようにはならないかもしれません。あまりに厳しい労働環境・雇用環境が改善されない限り,共働きで夫婦(内縁,同姓も含む)ともども肉体的,精神的に疲弊するのでは家庭が回らないということで一方ができ得る限り働き,他方ができ得る限り家事をしつつ働くパートナーを肉体的・精神的にケアするという分業は合理的であると見直される可能性もあります。

 暗い話ばかりになってしまいましたが,日本の低迷がしばらくつづくことは間違いないので,甘い見通しで生活することはできません。お子様方には日本国内に拘ることなく,海外での生活も含めて,広い視野で生き方を考える必要が出てきたのかもしれません。

 私が子どもの頃に見据えていた「将来」はとっくに過ぎ去りました。とすると私が生きる現在は,子どもの頃の私にとっての「未来」ということになるのでしょう。確かに私が子どもの頃に想像していたものとは全く異なる日本と世界が目の前にあります。未来が予想できないことはわかっていました。日本がこのようになるとは予想していませんでした。しかし,予想できなかった未来である現在において,さらにその先の未来に多少の期待を持ってしまうことも事実です。それを希望というならば,人間は希望を持っていなければ生きられないのではなく,人間は生きていれば希望を持ってしまう生き物なのだと思います。

 希望を持って今年も頑張りましょう,と言いたいところですが,正確には,生きていれば希望はあるので今年も頑張りましょう,ということになりそうです。

投稿者:河野邦広法律事務所

最強の職業

2021.12.29

 「最強の職業」は何でしょう。

 「最強」が身分保障という意味であれば公務員,中でも裁判官でしょうか。いや,外交官かもしれません。外交官には外交特権があり,接受国で逮捕されない等,非常に強力に保護されます。

 「最強」が権力を持つということであれば国会議員,内閣総理大臣でしょうか。

 「最強」が財力という意味だと時代によって異なりますが,現代では起業して社長になることでしょうか。

 私にとっての「最強の職業」はかつて新聞記者でした。なりたいと思ったことはありませんが(体力がもちません),最強の職業と呼ぶに相応しいと思っていました。理由は,1人の新聞記者が書いた記事によって世論を動かし,時には政権を倒すことまでできるからです。もちろん新聞記事はチームを組んで書いているとは思いますが,取材するのは結局1人の新聞記者です。

 1人の力で世界を変えられる新聞記者は最強の職業に相応しかったと思います。

 読んでいて気になる方もいらっしゃるでしょうが,新聞記者が最強の職業「であった」のです。現在の私の認識では,新聞記者は最強の職業ではありません。

 理由としては,情報源が多様化し,新聞より早く情報を発するメディアが増加し,新聞の購読者が減少したこともあります。しかし最も大きな理由は新聞記者が権力監視という役割を失っているように思えるからです。各紙の色というものがあることはわかりますが,一部の新聞は政権と同化しているのではないかと思うほど批判能力を失っています。もちろん,政権批判だけをすべきであるということではありませんが,政策を客観的視点で分析すれば全く批判がないということも考えにくく,何らかの政策批評や法案の(客観的な)危険性を指摘することはできるはずです。新聞はその能力を失ってしまったように感じられます。前述のように新聞記者は1人の力で権力をしとめる,トランプの大富豪でいえば「JOKER」のような存在です。JOKERとは道化師のことであり,道化師は市民を楽しませる一方で,王を批判できる存在であったともいわれます。王を批判できなくなった道化師は市民を楽しませるだけの存在になります。これは現在のワイドショーのコメンテーターにお笑い芸人の方々が増えている現象と重なります。実に不思議です。

 かくして私にとっての最強の職業は空位になりました。

 最強の職業をまた探すとして,私の職業である弁護士は最強の職業になることができるでしょうか。

 1人の力で法令の違憲判決を獲得し,無効とすることができるという意味では弁護士も最強の職業の可能性を秘めているのかもしれません。例えば近年,1票の格差訴訟が各地で提起され,参議院選挙が違憲状態であったとの判決が出ています。しかし「違憲状態」であっても選挙は有効であり,結局解決は国会に委ねられてしまいました。これでは残念ながら弁護士の力で世界を変えたとはいえません。むしろ弁護士には無力感,徒労感が漂うくらいです。

 弁護士による裁判を通じた働きかけは,裁判官に最終判断権があるというところに限界があります。

 私は弁護士が最強の職業でなくて良いと思っています。弁護士の仕事は究極的に依頼者の権利を守ることであり,職業としてのパワーに興味はありません。

 やはり,再び新聞記者(ジャーナリスト)が政権批判能力を取り戻して「JOKER」として市民の切り札(trump)になってほしいと思う今日この頃です。

投稿者:河野邦広法律事務所

親ガチャという発想

2021.12.11

 2021年の流行語トップ10に「親ガチャ」という言葉がノミネートされました。

 明確な定義はないものの,大まかにいうと「どのような親の元に生まれるかによってある程度,人生が決まってしまうことを前提に,子が親を選択できないことを,主にカプセルトイを対象とする抽選式玩具購入方式に例えたもの」ということでしょうか。

 親ガチャの定義は概ね共有されているとして,親ガチャという言葉で包摂しようとする対象があまり厳密に議論されていないように思われます。

 世の中には王族のような方々がおり,そのような人の子として生まれた場合は,ある意味,苦労せずにある程度の人生を全うできるという意味でガチャの対象になっているようにも思われます。しかし昨今話題になっている英国王室の問題や日本における内親王の結婚問題などを見ると,人間の本来的な自由を過度に制限されているように思われ,特殊な例として議論からは外すべきように思われます。対象にしたとしても王族だから「当たり」ということにはならなそうです。

 反対に親から虐待を受け,亡くなってしまうような場合もあります。このような場合も親が一般的に想定される正常な行動から大きく逸脱した行動を採っているため,議論の対象から外すべきように思われます。むしろ子供の虐待について「親ガチャ」などという軽い言葉を用いて議論すべきではないでしょう。

 そうすると親ガチャの対象となる範囲は,王族のような特殊な社会や親の子に対する犯罪が起こるような場合を除いたものになると思われます。

 次に,何をもって「当たり」とし,何をもって「ハズレ」とすべきかという議論になろうかと思います。この点が子の主観のみに左右されるのでは基準として機能しないため,客観的な基準が必要となります。一般的に親が持つ属性で社会的に着目されやすいのは,財力,学歴,容姿などでしょう。体型を含む容姿は遺伝によってある程度影響するでしょうし,財力によってある程度は子の目標実現に資することもあるでしょう。学歴は必ずしも能力を反映しないと考えますが,一般的な文脈との関係では財力を媒介として結果に反映されることが多いように思われます。

 こういった要素を数値化して,全体のポイントが高いほど,その親は「当たり」となり,低いほど「ハズレ」になるのでしょうか。親ガチャの議論を見ていると,そうでもないように思われます。なぜ基準が明確にならないのでしょうか。

 ここで親ガチャという言葉を使う場合を見てみると,「自分は当たりだ」と積極的に言う人は皆無で,「自分はハズレだ」という人しかいないように思われます。そして自分がいかにハズレたかを他者と比べているようにも思われます。もちろん,「あなたは親ガチャ当たりですか?」と聞かれれば「当たりだと思います。」と答える人も多いでしょう。しかし,そのような方々は親ガチャ議論のコミュニティーには入ってこないわけです。

 このような状況から考えると,「親ガチャ」という言葉は,自分の人生が思い通りにならなかった方々の未練であったり,怨嗟を示す言葉であり,ごく主観的な感想に近いといえるのではないでしょうか。

 だからといって私は「言ったところで状況は改善しない,意味がない」といった自己責任論的な立場を採りません。むしろ若者がこのような言葉を発してしまうこと,そしてその言葉が一定の説得力を持って流通してしまうことに社会や国家が危機感を持たなければならないと思います。若者が希望を持てない社会に未来はない,ということが少し前までは選挙の度に声高に叫ばれていましたが,ついにそのような言葉すら聞かなくなってしまいました。政治が未来を見据えたものであるならば,若者に配慮した政策がもっと語られても良いのではないでしょうか。

 反対に「親ガチャ」という言葉を安易に使ってしまう方に考えてほしいこともあります。

 そもそも自分が生まれた時に自分を位置づける要素は親だけでしょうか。兄弟姉妹(弟妹は生まれた後の要素ですが),親族といった要素もあります。また自分が選択できる要素も含まれるとはいえ,友人などもある程度決まってきます。こういった関係や出会いの中に1人でも関係があって良かったと思える人がいたら,それは「当たり」と考えるべきなのではないでしょうか。現在,あなたから見てうまくいっているように見える方も,親との関係だけではなく,色々な方に支えられたり,助けられているはずです。それと同様にあなたを支えてくれる人がいるはずです,助けてくれた人がいるはずです。そういった人が1人でも浮かぶのであれば,「当たり」だと思ってほしいです。

 また,あなたからみて「成功している」と見られる人も,その人から見れば成功していなかったり,努力や才能に見合った結果が得られていない場合が多々あります。ニュートンは物理学においては多大な成果を上げましたが,錬金術で失敗していたとも聞きます。プロ野球選手で何千本もヒットを打った超一流の方でも,引退する時に,生まれ変わって野球選手になれるなら投手として1勝したい,と言っていました。どんな人でも,思い通りにならないことを経験して今に至っていると考えれば,自分の人生もそんなに悪くないと思えるのではないでしょうか。

投稿者:河野邦広法律事務所

いつか来た道

2021.07.30

 令和3年7月29日,東京都の1日あたりのコロナウィルス感染者数は3865人と報じられました。日本全国の感染者数は1万人を突破しました。同月30日の東京都の感染者数は3300人と少し減少しましたが,前の週の金曜日と比較すると約2.5倍になります。前の週の金曜日が連休中で検査数が少ないことを差し引いても急激な増加と評価できます。

 このような急激な増加について政府や一部のコメンテーター等は,感染者の急増とオリンピックとは関係ないと言い切っています(このような論者を「因果関係否定論者」と呼ぶことにします。)。しかしながら言い切ることは誤りであると思われます。そもそもオリンピック開会前から東京都には緊急事態宣言が出されており,現行法下において最も強い規制下に置かれていると言えます。その上でオリンピック開会前から今週にかけて感染を急増させるような出来事はありません。そのような状況から考えるとオリンピックの開幕が感染の増加に全く影響していないと主張することは難しいでしょう。そもそもオリンピック開会直前にブルーインパルスが東京上空を飛んでいましたが,それを見るために多くの人々が道路上に集まっているのを報道で見た方は多いのではないでしょうか。私も報道で映像を見て,即座に感染者が増加することを懸念しました。

 またオリンピックを開催したことで,政府が国民に対して誤ったメッセージを送ってしまったことも見過ごせないでしょう。つまり政府がオリンピックの開催を決定したことが,国民に感染状況を軽く評価させる根拠として認識されてしまったということです。この点について因果関係否定論者は,オリンピックの開催と国民の意識は関係ないとか,酷い場合にはそのように受け止める国民が馬鹿だ,などと主張します。しかし考えていただきたいのは,緊急事態宣言との関係です。日本が感染対策の主力として繰り返している緊急事態宣言には強制力がありません。つまり緊急事態宣言は政府が危機的状況を国民に対してアナウンスすることで国民の認識を通じて行動変容等を促す政策です。このようなアナウンスに国民の行動変容等を促す効果があると考えるのであれば,同じく「オリンピックを安全安心に開催します。」とアナウンスすることで国民が感染状況について軽く評価する効果を生じると考えなければ矛盾しています。因果関係否定論者はこの論点から逃げているように感じられます。一部でオリンピックと感染増加は切り離して考えなければならない,と述べているコメントを拝見しましたが,論点から逃げていることが明らかです。この論点を別の角度から表現すれば,よく見かける「アクセルとブレーキを同時に踏む」ということになるでしょう。アクセルがオリンピック開催で,ブレーキが緊急事態宣言になります。因果関係否定論者は全国民に対して,アクセルとブレーキを同時に踏んでいる政府の政策を「賢く解釈して,うまく立ち回れ」という無理難題を押しつけているように見えます。特にこのような無理難題は若者にとっては耐えがたいものであることは想像に難くありません。私のような年を取った者にとっての1年と,若者,特に学生の1年の価値は,比べものになりません。若者からすれば,感染しても大したリスクがないにもかかわらず貴重な日々を捨てろと言われることは不合理でしかありません。ましてオリンピックを大々的に開催しておいて,国民の行事は禁止です,と言われては緊急事態宣言の感銘力など無に帰すでしょう。

 昨今の感染者急増はもともと感銘力を失った緊急事態宣言に加えてオリンピックを開催するという矛盾した決断がされたことにより国民の認識を通じた行動変容を起こせず,むしろリバウンドを起こしたことにより生じたものであると考えるのが合理的です。

 それにもかかわらずメディアはオリンピックの礼賛と,開催を反対していた人に対するバッシングにあふれています。特に後者は幼稚すぎる行動であり,日本もここまで来たか,といった衝撃を受けました。私はマスコミがオリンピック中止を主張していたとしても,オリンピックの中継をすべきであると思いますし,アスリートの活躍を報道すべきであると考えます。またオリンピック中止を主張していた方々がオリンピックを見ることも全く問題がないと考えます。この点についてはインターネットの記事などで識者が論説などを載せているので,そちらをご覧いただいた方が良いかと思います。

 コロナウィルス感染者急増の報道に接しつつ,オリンピックの報道で日本人選手が活躍する報道を見て,インターネットにおいて敗退した日本人選手やオリンピック中止派への誹謗中傷を読んでいると,日本が太平洋戦争において敗戦する直前もこのような感じだったのだろう,とふと思ってしまいました。先人の努力により日本は長らく戦争を経験することがありませんでしたが,戦争とは異なる形で平和を失い,敗北を経験するかもしれません。

投稿者:河野邦広法律事務所

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