弁護士ブログ

感染症検査とオリンピック開催

2020.03.31

 日本は新型コロナウイルスの検査について,現在,原則として37.5℃の発熱が4日続くことと,いったん窓口に相談することを条件としているようです。もちろん例外もあり,高齢者その他の条件を備える人は上記条件がなくても検査できるようです。

 このような検査条件は,ざっくりと「医療崩壊を防ぐため」,といった目的で設けられたとされているように思われます。しかし,この点は明言されていないので,後日,全く違う目的であったとされてしまったり,そもそも検査を受けられたのに受けなかった,などと言われるおそれもありそうです。

 それはさておき,首相や都知事の会見が頻繁に行われ,著名人が亡くなるなど,感染拡大への緊張感が急激に高まっているように感じられます(もう手遅れだという論者もいらっしゃいます。)。情報が少なすぎることと,感染者が急激に増加し続けていることから,いわゆる「終息」といわれる状態までどのくらいかかるか見当もつきません。そんな中,延期後のオリンピックが2021年7月23日に開幕すると決まり,これに向けて物事が進められていくことは確実です。

 オリンピックの開催条件についても情報がありません。この点については私個人の意見ですが,安全を考えれば,少なくとも開催地である日本において新型コロナウイルスについて終息宣言が出されることを必要条件とするのが基準として明確であると思われます。WHOが定める感染症の終息宣言の基準は,最後の感染者が完全に回復してから4週間(28日間)経過した時点とのことです。

 胸を張ってオリンピックを開催できるためには終息宣言は早めに出されなければならないでしょうから,仮に余裕を持って6か月前に終息宣言を出すとすると,その約1か月前には感染者が全く出てこない状態にしなければなりません。2021年7月23日の7か月前は2020年12月24日です。つまり今年のクリスマスイブより前に感染者が一切出ない状態にしなければならないことになります。これは実現可能でしょうか。12月から2月にかけては毎年インフルエンザが流行するように,ウイルスにとって活動しやすい状態になります。2020年の年末までに感染者がいなくなり,終息宣言のカウントダウンが始まった時に,新型コロナウイルス感染者らしき症状を訴える方が表れた場合,どうでしょう。

 日本は前記のような検査条件を設定する国です。これまでの国会でのやりとりを見ると改ざんが組織的に行われる国です。あったことがなかったことになってしまう国です。先ほどの患者さんはどうなるでしょう。想像がつくのではないでしょうか。

 そうならないように政府は遅くとも9月頃には感染者が発生しない状態にしたいと考え,実行すると思います。そして迅速に実行されれば,各専門家の方々の真摯な努力と,大半の国民の賢明な行動により閉塞感を克服できると信じています。

 しかし,そのようなポジティブなシナリオが現実のものとされるためには,前記の検査要件は足枷になるような気がしてなりません。今一度,検査の目的と効果について考えた上で,長い目で見た場合の最良の方策が採られることを願います。

 また,厳しい見方をすれば,日本で終息宣言を出すことができたとしても,終息宣言を出すことができなかった国の代表選手及び観客は入国できない可能性があります。この場合,どの程度の国が終息宣言を出すことができれば開催するのか,といった問題も出てくると思います。

 いずれにしろ,オリンピック開催に向けた道は我々が想像しているよりも遥かに険しそうです。

投稿者:河野邦広法律事務所

新型コロナウイルス

2020.03.27

 世間は今,新型コロナウイルスの拡大に戦々恐々としています。

 オンタイムでこれを読んだ方にとっては,これから書くことが当たり前のこととして映るかもしれません。しかし今起こっていることは何年後かには忘れ去られているかもしれません。新型コロナウイルスについては忘れなくても,この時,国で行われた政策や国会でのやりとりが,ねじ曲げられたり改ざんされるかもしれません。最近の日本の政治を見ていて,そのような懸念を抱いたため,感じたことを書いておこうと考えました。

 中国の武漢で新型コロナウイルスの感染が拡大している情報が入った当初,日本は基本的には感染防止策を採りませんでした。むしろ中国からの旅行者を「お待ちしています。」という姿勢でした。(この方針の是非を論じることはしません。ただ,事実としてそうであったことを書き留めたいと思いました。)

 日本に停泊したダイヤモンドプリンセス号内の感染者については船内にとどめる方針を採りました。

 その後,中国だけでなく欧州等でも感染が拡大していることがわかっても,日本は原則として37.5℃の体温が4日間続くことなどを条件として相談後に検査をするなど,検査数を絞り込む方針を採りました。

 また政府は令和2年3月2日から全国の小中高校に一斉休校を要請し,ほとんどの学校が休校に入りました。卒業式は卒業生徒のみで行われたり,卒業式自体が行われない学校もありました。防衛大学校の卒業式は行われました。卒業生の間隔は空けられておらず,卒業生らが大きな声を上げる様子が報道されました。

 なおも欧州,米国等の感染拡大が収束せず,株価の暴落を経て,令和2年3月24日,東京オリンピックの延期が発表されました。

 意図的か偶然かはわかりませんが,東京オリンピックの延期が発表されたとたんに東京の1日あたりの感染者数が倍以上に増加しました。

 東京都は平日の自宅勤務,休日の外出自粛を要請しました。これと時を同じくして首相夫人が桜の木の前で芸能人らと撮った写真が週刊誌に掲載されました。写真の真贋等がわからないので,この点の評価は置いておきますが,この報道について首相は国会で「レストランに行ってはいけないのか」と答弁したと報じられています。これを言ってはいけなかったのではないでしょうか。国民は外出自粛を要請されているのです。レストランに行くことも外出です。レストランに行って構わなかったのであれば,外出自粛要請とは何だったのでしょうか。今回の外出自粛要請によって店じまいをすることになった飲食店に何と説明するのでしょうか。「『自粛要請』しただけで『禁止』はしていない。外食しても良いのにしなかったのは国民の判断だ。」とでも言うのでしょうか。首相の当該答弁はあまりに無責任です。

 思えば新型コロナウイルスをめぐる政府の対応は最初から後手にまわり,かつ,ちぐはぐでした。経緯は上記のとおりなのですが,報道されている個別の政策についてもちぐはぐです。

 例えば当初は「現金給付」と言っていたのに,急に「和牛」や「旅行代金」という話が出てきてしまいました。これに続いて「魚介類」,「高速料金値下げ」といった話が出てきて,子どもが会議をしているような印象を受けました。そうかと思えば再び「収入要件ありの現金給付」という話が出てきました。仮にこの政策が実現した場合,要件検討の役を担うことになる自治体は大変でしょう。事務費も高くつきそうです。また政府は収入が減少した世帯を救済するための政策に軸足を置いているのか,景気対策,経済の下支えとして政策を打つのかがはっきりしていません。

 また外出自粛についてもちぐはぐ感が否めません。令和2年3月2日からの一斉休校がそもそも唐突でしたが,首相は「卒業式を実施してほしい」とも述べました。さきほどの「レストランに行ってはいけないのか」と同じパターンです。首相は卒業式シーズンが終わる前から実施してほしいと言っていたと主張しているようですが,そうであるとして学校にそれが伝わっていたのでしょうか。そして令和2年3月20日には休校要請を新学期から解除すると発表されました。しかしこの方針はちぐはぐになってしまいました。令和2年3月下旬において,国民は外出自粛を要請されており,東京近郊から東京都への移動についても自粛要請が出ています。そして自粛の期間は「21日程度」と報道されています。とすると,外出自粛,東京都への移動自粛は令和2年4月中旬まで続く可能性が高いといえます。新学期が始まるのは4月上旬です。これでは子どもが登校して,親は外出自粛という状態になりかねません。もちろん今後,4月上旬に外出・移動自粛要請が解かれる可能性もあります。または1学期の開始時期を4月中下旬にする可能性もありますし,休校要請解除の撤回もあり得ます。しかし現状を見ていると,上記のような矛盾した政策が罷り通ってしまうのではないかという恐怖心を抱かざるを得ません。このようなとき,最近の日本国民は何とか理屈を付けて政策の平仄を合わせる努力をしてきたように見受けられます。特にインターネットに書き込みをする方の中には,政策担当者なのではないかと思うような詳しさで平仄を合わせている方も見受けられます。しかし,現在のような緊急事態においてそのような努力は有害無益です。国民はもっと政権に要求して良いし,文句も言って良いのです。むしろ文句を言うべきです。

 前のブログでも述べたように,現在の政権与党は桜を見る会の問題と検察官の定年延長問題辺りから急激におかしくなりました。以前からおかしくなっていたかもしれませんが,この2点については節度を超えています。

 何年後かにこの内容がどのような思いで読まれるか,楽しみでもあり,恐怖でもあります。

投稿者:河野邦広法律事務所

許さない人(2)

2020.03.07

 なぜ人は人を許さなくなってしまったのでしょうか。

 この点はメディアでもよく言われていることですが,「承認欲求」である程度説明が付くと思います。「承認欲求」は「他者から認められたい」と思うことが「他者承認欲求」で,「有るべき自分に自分がなれているか」ということが「自己承認欲求」というそうです。冒頭で述べた,他人を監視して違反者を報告する行動は,これを行うことで他者に認められたいということであれば「他者承認欲求」となり,ルールを守れる自分が理想ということであれば「自己承認欲求」ということで説明が付きそうです。

 承認欲求はさらに「上位承認」「対等承認」「下位承認」の3つに分けられるそうです。「上位承認」は「自分が他人よりも優位」,「対等承認」は「自分が他人と対等」,「下位承認」は「自分が他人よりも下位」として認められたということらしいです。「下位承認」は面白いですね。他人から「下位」として認められたい,というのはまだわかりますが,「自己承認欲求」の「下位承認」があり得るとしたら,どういうことなのでしょうか。「あるべきダメな自分になれているか」とストイックに突き詰める姿は滑稽を超えて恐怖すら覚えます。

 こういった下位承認は偽悪的な行動につながるようにも感じられ,先日のコラムで書いたTwitterで悪行を働いてしまう人々の精神構造を説明できるかもしれません。

 さて,承認欲求の結果,人が人を許さなくなったとして,どうすれば人は人を許すことができるようになるのでしょうか。

 この点についても承認欲求にヒントがあるかもしれません。承認欲求が自己を肯定することであるならば「許す」ことは他者を肯定することです。肯定されたい自分を自覚できたら,他人が肯定されたいと思っていることも理解できるはずです。これが理解できたら,あとはあるがままの他人を肯定するだけで他人を許すことができます。

 しかしながら,この方法をなかなか採ることができないことは現状を見るに明らかです。その理由は置いておいて,もう一つ人が人を許せる方法があります。それは全く逆の発想で,「他人は自分と別の存在である」と考える方法です。とある記事で読んだことがあるのですが,外国人男性と結婚した女性が,夫の家事のやり方に注文をつけたところ,夫から「自分の国ではこの方法でやる」と反論されて納得した,というものがありました。このパターンは,外国人である夫には自分のやり方があり,異なっても当然である,理解できなくても当然である,ということに気づくことができ,許すことができたのでしょう。このような考え方ができれば人は人を許すことができます。

 では,この夫が日本人であった場合,夫が「実家ではこの方法でやっていた」と反論していたら,女性は納得したでしょうか。納得しないでしょう。日本に特徴的なことか否かはわかりませんが,日本人は日本全域において概ね同じ様式で生活していると考えており,他者が少しでも異なる方法を採ると強く非難します。顕著なのが箸の持ち方や食べる順番です。箸を使って食べる文化は世界的に見て多数でないにもかかわらず,唯一つの方法のみを正しい方法として確立し,少しでも異なる方法を採ると「育ちが悪い」「日本人じゃない」と非難します。前記の「許さない人」たちの非難は日本人に向いていることがほとんどなのではないでしょうか。「日本人ならこんなことはしない,してはいけない」という,あるかないかもわからない共通認識「のようなもの」が人々の頭の中にあって,それが承認欲求となって露顕しているのではないでしょうか。

 日本人でも,そうでなくても自分は自分であり,他人は他人です。そして自分は他人を監視しなくても,ルールが多少守れなくても充分すばらしい存在です。自分に縛られ,他人に監視されて疲れ果てた先に幸せは見えるでしょうか。他人にほどよく無関心になると人生は少し楽になります。

 最後に,箸の持ち方はなぜ1種類しか認められていないのでしょう。ひもの結び方のように色々な方法が認められればよいと思います。

投稿者:河野邦広法律事務所

許さない人(1)

2020.03.06

 最近,「許さない人」が増えていませんか。

 例えば昨年のニュースで,未成年のプロ野球選手が横断歩道以外の場所を横断したとという内容が報じられていました。もちろん厳密な意味では横断しない方がいいのですが,全国的に報じるようなことでしょうか。一般人はお咎めなしでプロ野球選手だと悪人のように報道されるとなると,もはやプロ野球選手差別とすら思ってしまいます。これくらいは許しても良いのではないでしょうか。私のこのような発言も「法を遵守すべき弁護士が道交法違反を慫慂した」と叩かれてしまうのかも知れません。なお弁護士は法を犯してしまった人を弁護する仕事も多いことは忘れないでいただきたいと思います。弁護士は他人の許し(赦し)を乞う仕事でもあるのです。

 他方,インターネットでもちょっとしたルール違反などを報告し,時には撮影までして拡散し,よってたかって違反者を叩いているのを見かけます。そしてこれがエスカレートして,ルール違反だけでなくモラル違反・マナー違反・エチケット違反へと対象が拡大します。酷いときには何も違反していないのに,「容姿がいまいち」とか,「服と靴の組み合わせが許せない」,酷いときには「お弁当がまずそう」,などと八つ当たりのような批判をしているようなものも見かけます。

 最近では高い社会的地位にあった人が刑事手続において逮捕・勾留されなかったりすると,その人を「上級国民」と呼んで特別扱いされているように書き立てたりもしています。確かに,勾留の判断において高い社会的地位にある人であれば今ある地位を捨てて逃げたりしないであろうということで,逃亡のおそれが低いと評価され,勾留の必要が無い方向で判断されることはあり得ます。しかし社会的地位を理由に特別扱いを受けているとまでは断定できないのではないでしょうか。

 このように,あるカテゴリーにある者を「上級国民」と区分けして特殊に評価する行為は,自分を「上級国民」ではないと考える方々が「上級国民」を妬んだり,自己の不満を「上級国民」にぶつけて鬱憤を晴らすという構図に見えます。そのような構図・行為の裏には,「上級国民」が自分とは異なって苦労や悩みの少ない人生を送っているに決まっている,という漠然とした前提が隠れているように思われます。しかし昨年,「上級国民」と評価されるであろう方が苦悩の末に自分の子を殺害した事件が発生しました。このような事件を見ると「上級国民」と評価されて攻撃対象とされてしまう方も,一般の方と同様かそれ以上の悩みを抱えて生きていたことがわかります。その事実を認識したとき,「上級国民」のレッテルを貼っていた方々の心はどのように動くのでしょうか。自分が間違った前提の上に立って他人を批判したり主張していた,と反省することが自然で,かつ多くの方はそのように思うのではないでしょうか。それでも「上級国民,ざまあみろ」と思う方は倫理や善悪の問題以前に理屈や認識の構造を組み立て直す必要があるかもしれません。

 なお私は,他人を許せないタイプの発言者が,この「ざまあみろ」タイプと親和性があるのではないかと思っています。

(つづく)

投稿者:河野邦広法律事務所

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