2020.03.07
なぜ人は人を許さなくなってしまったのでしょうか。
この点はメディアでもよく言われていることですが,「承認欲求」である程度説明が付くと思います。「承認欲求」は「他者から認められたい」と思うことが「他者承認欲求」で,「有るべき自分に自分がなれているか」ということが「自己承認欲求」というそうです。冒頭で述べた,他人を監視して違反者を報告する行動は,これを行うことで他者に認められたいということであれば「他者承認欲求」となり,ルールを守れる自分が理想ということであれば「自己承認欲求」ということで説明が付きそうです。
承認欲求はさらに「上位承認」「対等承認」「下位承認」の3つに分けられるそうです。「上位承認」は「自分が他人よりも優位」,「対等承認」は「自分が他人と対等」,「下位承認」は「自分が他人よりも下位」として認められたということらしいです。「下位承認」は面白いですね。他人から「下位」として認められたい,というのはまだわかりますが,「自己承認欲求」の「下位承認」があり得るとしたら,どういうことなのでしょうか。「あるべきダメな自分になれているか」とストイックに突き詰める姿は滑稽を超えて恐怖すら覚えます。
こういった下位承認は偽悪的な行動につながるようにも感じられ,先日のコラムで書いたTwitterで悪行を働いてしまう人々の精神構造を説明できるかもしれません。
さて,承認欲求の結果,人が人を許さなくなったとして,どうすれば人は人を許すことができるようになるのでしょうか。
この点についても承認欲求にヒントがあるかもしれません。承認欲求が自己を肯定することであるならば「許す」ことは他者を肯定することです。肯定されたい自分を自覚できたら,他人が肯定されたいと思っていることも理解できるはずです。これが理解できたら,あとはあるがままの他人を肯定するだけで他人を許すことができます。
しかしながら,この方法をなかなか採ることができないことは現状を見るに明らかです。その理由は置いておいて,もう一つ人が人を許せる方法があります。それは全く逆の発想で,「他人は自分と別の存在である」と考える方法です。とある記事で読んだことがあるのですが,外国人男性と結婚した女性が,夫の家事のやり方に注文をつけたところ,夫から「自分の国ではこの方法でやる」と反論されて納得した,というものがありました。このパターンは,外国人である夫には自分のやり方があり,異なっても当然である,理解できなくても当然である,ということに気づくことができ,許すことができたのでしょう。このような考え方ができれば人は人を許すことができます。
では,この夫が日本人であった場合,夫が「実家ではこの方法でやっていた」と反論していたら,女性は納得したでしょうか。納得しないでしょう。日本に特徴的なことか否かはわかりませんが,日本人は日本全域において概ね同じ様式で生活していると考えており,他者が少しでも異なる方法を採ると強く非難します。顕著なのが箸の持ち方や食べる順番です。箸を使って食べる文化は世界的に見て多数でないにもかかわらず,唯一つの方法のみを正しい方法として確立し,少しでも異なる方法を採ると「育ちが悪い」「日本人じゃない」と非難します。前記の「許さない人」たちの非難は日本人に向いていることがほとんどなのではないでしょうか。「日本人ならこんなことはしない,してはいけない」という,あるかないかもわからない共通認識「のようなもの」が人々の頭の中にあって,それが承認欲求となって露顕しているのではないでしょうか。
日本人でも,そうでなくても自分は自分であり,他人は他人です。そして自分は他人を監視しなくても,ルールが多少守れなくても充分すばらしい存在です。自分に縛られ,他人に監視されて疲れ果てた先に幸せは見えるでしょうか。他人にほどよく無関心になると人生は少し楽になります。
最後に,箸の持ち方はなぜ1種類しか認められていないのでしょう。ひもの結び方のように色々な方法が認められればよいと思います。
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