弁護士ブログ

「である」・「べきである」を超えて

2019.12.25

 今日はクリスマスである。

 クリスマスの日には子どもにプレゼントをあげるべきである。

 「である」と「べきである」の区別は私たち法律家の論述にとって基本といってもよいくらい重要です。一般的な論述においても重要性は変わらないでしょう。「である」と「べきである」の意義については哲学で「ザイン」と「ゾルレン」として学んだ方も多いのではないでしょうか。私も高校の倫理の授業で「ザイン」と「ゾルレン」が登場しましたが,その頃はよく理解できませんでした。

 法律家の論述の多くは証拠に基づいて「〇〇である」と事実を主張します。この事実の積み重ねが要件事実を推認させて法律効果が発生する,という仕組みです。ですから「べきである」が登場することの方が少ないといえます。

 この「べきである」には押しつけがましいイメージがあるかも知れません。よくある例は「女性は家庭を守るべきである。」や「男は家族を養うべきである。」といった性による役割分担の根拠に使われるものです。現在では,こういった押しつけがましい「べきである」論が批判され,性別を問わず,その人を尊重することが浸透してきたように思われます。そういった意味では「その人」の尊重,つまり「である」の尊重が進んできていると言えるかも知れません。

 もっとも,性別における「である」「べきである」論が変化しつつある現在において,もう一つの視点が浮かび上がってきています。それはLGBTの視点です。この点についても「その人」を尊重すればよいようにも思われます。しかし,トランスジェンダーについては問題が簡単ではありません。例えばトランスジェンダーといわれる「その人」は,客観的には「男性である」けれども,主観的には「女性である」ということになります(逆もあります。)。この場合の「その人」を尊重する場合,「女性である」ことを前提に尊重する必要があるでしょう。しかし客観的に「その人」は男性であり,いわゆる生物学的には「男性である」ということになります。ここに問題の難しさがあり,先ほどの「である」の尊重を客観的に適用しただけでは解決しないのです。

 ではどうしたらよいか。

 抽象的には「その人」の「思い」または「想い」を尊重するということではないでしょうか。「その人」が男性として扱われたいか,女性として扱われたいか,または場面によっては性別という概念を持ち出さないでほしいか,ということを尊重するということです。

 憲法は「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」(憲法19条)と規定しています。そして,この思想及び良心の自由は人権どうしの調整原理とされる公共の福祉による制約もされないとされています。つまり思想と良心については絶対的に自由であるということです。前記トランスジェンダーが厳密な意味で「思想」に当たるかはひとまず置くとして,「その人」の「思い」や「想い」を尊重することが憲法の理念にもかなうということです。

 これを「その人」の問題に引き直せば,「ある人」は,「その人」の「思い」や「想い」を尊重する「べきである」,ということになります。ここで再び「べきである」が登場しました。「べきである」から脱却し,「である」を超えた結果,再び「べきである」が登場しました。この「べきである」は押しつけがましいでしょうか。そうではないはずです。

 「べきである」が登場してしまった原因は,憲法が求める理念に現実が合致していない結果,その修正・回復が必要となったためなのです。

 憲法が求める理念が実現されたとき,「べきである」も「である」も登場しなくなるでしょう。

 追伸:上記文章は,例えば男性の身体のままで女性用の公衆浴場や更衣室等を利用すること(またはその逆)を制限してはならないといった趣旨は含んでおりません。

投稿者:河野邦広法律事務所

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