弁護士ブログ

最強の職業

2021.12.29

 「最強の職業」は何でしょう。

 「最強」が身分保障という意味であれば公務員,中でも裁判官でしょうか。いや,外交官かもしれません。外交官には外交特権があり,接受国で逮捕されない等,非常に強力に保護されます。

 「最強」が権力を持つということであれば国会議員,内閣総理大臣でしょうか。

 「最強」が財力という意味だと時代によって異なりますが,現代では起業して社長になることでしょうか。

 私にとっての「最強の職業」はかつて新聞記者でした。なりたいと思ったことはありませんが(体力がもちません),最強の職業と呼ぶに相応しいと思っていました。理由は,1人の新聞記者が書いた記事によって世論を動かし,時には政権を倒すことまでできるからです。もちろん新聞記事はチームを組んで書いているとは思いますが,取材するのは結局1人の新聞記者です。

 1人の力で世界を変えられる新聞記者は最強の職業に相応しかったと思います。

 読んでいて気になる方もいらっしゃるでしょうが,新聞記者が最強の職業「であった」のです。現在の私の認識では,新聞記者は最強の職業ではありません。

 理由としては,情報源が多様化し,新聞より早く情報を発するメディアが増加し,新聞の購読者が減少したこともあります。しかし最も大きな理由は新聞記者が権力監視という役割を失っているように思えるからです。各紙の色というものがあることはわかりますが,一部の新聞は政権と同化しているのではないかと思うほど批判能力を失っています。もちろん,政権批判だけをすべきであるということではありませんが,政策を客観的視点で分析すれば全く批判がないということも考えにくく,何らかの政策批評や法案の(客観的な)危険性を指摘することはできるはずです。新聞はその能力を失ってしまったように感じられます。前述のように新聞記者は1人の力で権力をしとめる,トランプの大富豪でいえば「JOKER」のような存在です。JOKERとは道化師のことであり,道化師は市民を楽しませる一方で,王を批判できる存在であったともいわれます。王を批判できなくなった道化師は市民を楽しませるだけの存在になります。これは現在のワイドショーのコメンテーターにお笑い芸人の方々が増えている現象と重なります。実に不思議です。

 かくして私にとっての最強の職業は空位になりました。

 最強の職業をまた探すとして,私の職業である弁護士は最強の職業になることができるでしょうか。

 1人の力で法令の違憲判決を獲得し,無効とすることができるという意味では弁護士も最強の職業の可能性を秘めているのかもしれません。例えば近年,1票の格差訴訟が各地で提起され,参議院選挙が違憲状態であったとの判決が出ています。しかし「違憲状態」であっても選挙は有効であり,結局解決は国会に委ねられてしまいました。これでは残念ながら弁護士の力で世界を変えたとはいえません。むしろ弁護士には無力感,徒労感が漂うくらいです。

 弁護士による裁判を通じた働きかけは,裁判官に最終判断権があるというところに限界があります。

 私は弁護士が最強の職業でなくて良いと思っています。弁護士の仕事は究極的に依頼者の権利を守ることであり,職業としてのパワーに興味はありません。

 やはり,再び新聞記者(ジャーナリスト)が政権批判能力を取り戻して「JOKER」として市民の切り札(trump)になってほしいと思う今日この頃です。

投稿者:河野邦広法律事務所

親ガチャという発想

2021.12.11

 2021年の流行語トップ10に「親ガチャ」という言葉がノミネートされました。

 明確な定義はないものの,大まかにいうと「どのような親の元に生まれるかによってある程度,人生が決まってしまうことを前提に,子が親を選択できないことを,主にカプセルトイを対象とする抽選式玩具購入方式に例えたもの」ということでしょうか。

 親ガチャの定義は概ね共有されているとして,親ガチャという言葉で包摂しようとする対象があまり厳密に議論されていないように思われます。

 世の中には王族のような方々がおり,そのような人の子として生まれた場合は,ある意味,苦労せずにある程度の人生を全うできるという意味でガチャの対象になっているようにも思われます。しかし昨今話題になっている英国王室の問題や日本における内親王の結婚問題などを見ると,人間の本来的な自由を過度に制限されているように思われ,特殊な例として議論からは外すべきように思われます。対象にしたとしても王族だから「当たり」ということにはならなそうです。

 反対に親から虐待を受け,亡くなってしまうような場合もあります。このような場合も親が一般的に想定される正常な行動から大きく逸脱した行動を採っているため,議論の対象から外すべきように思われます。むしろ子供の虐待について「親ガチャ」などという軽い言葉を用いて議論すべきではないでしょう。

 そうすると親ガチャの対象となる範囲は,王族のような特殊な社会や親の子に対する犯罪が起こるような場合を除いたものになると思われます。

 次に,何をもって「当たり」とし,何をもって「ハズレ」とすべきかという議論になろうかと思います。この点が子の主観のみに左右されるのでは基準として機能しないため,客観的な基準が必要となります。一般的に親が持つ属性で社会的に着目されやすいのは,財力,学歴,容姿などでしょう。体型を含む容姿は遺伝によってある程度影響するでしょうし,財力によってある程度は子の目標実現に資することもあるでしょう。学歴は必ずしも能力を反映しないと考えますが,一般的な文脈との関係では財力を媒介として結果に反映されることが多いように思われます。

 こういった要素を数値化して,全体のポイントが高いほど,その親は「当たり」となり,低いほど「ハズレ」になるのでしょうか。親ガチャの議論を見ていると,そうでもないように思われます。なぜ基準が明確にならないのでしょうか。

 ここで親ガチャという言葉を使う場合を見てみると,「自分は当たりだ」と積極的に言う人は皆無で,「自分はハズレだ」という人しかいないように思われます。そして自分がいかにハズレたかを他者と比べているようにも思われます。もちろん,「あなたは親ガチャ当たりですか?」と聞かれれば「当たりだと思います。」と答える人も多いでしょう。しかし,そのような方々は親ガチャ議論のコミュニティーには入ってこないわけです。

 このような状況から考えると,「親ガチャ」という言葉は,自分の人生が思い通りにならなかった方々の未練であったり,怨嗟を示す言葉であり,ごく主観的な感想に近いといえるのではないでしょうか。

 だからといって私は「言ったところで状況は改善しない,意味がない」といった自己責任論的な立場を採りません。むしろ若者がこのような言葉を発してしまうこと,そしてその言葉が一定の説得力を持って流通してしまうことに社会や国家が危機感を持たなければならないと思います。若者が希望を持てない社会に未来はない,ということが少し前までは選挙の度に声高に叫ばれていましたが,ついにそのような言葉すら聞かなくなってしまいました。政治が未来を見据えたものであるならば,若者に配慮した政策がもっと語られても良いのではないでしょうか。

 反対に「親ガチャ」という言葉を安易に使ってしまう方に考えてほしいこともあります。

 そもそも自分が生まれた時に自分を位置づける要素は親だけでしょうか。兄弟姉妹(弟妹は生まれた後の要素ですが),親族といった要素もあります。また自分が選択できる要素も含まれるとはいえ,友人などもある程度決まってきます。こういった関係や出会いの中に1人でも関係があって良かったと思える人がいたら,それは「当たり」と考えるべきなのではないでしょうか。現在,あなたから見てうまくいっているように見える方も,親との関係だけではなく,色々な方に支えられたり,助けられているはずです。それと同様にあなたを支えてくれる人がいるはずです,助けてくれた人がいるはずです。そういった人が1人でも浮かぶのであれば,「当たり」だと思ってほしいです。

 また,あなたからみて「成功している」と見られる人も,その人から見れば成功していなかったり,努力や才能に見合った結果が得られていない場合が多々あります。ニュートンは物理学においては多大な成果を上げましたが,錬金術で失敗していたとも聞きます。プロ野球選手で何千本もヒットを打った超一流の方でも,引退する時に,生まれ変わって野球選手になれるなら投手として1勝したい,と言っていました。どんな人でも,思い通りにならないことを経験して今に至っていると考えれば,自分の人生もそんなに悪くないと思えるのではないでしょうか。

投稿者:河野邦広法律事務所

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